居場所を求めることで埋めたかったものに気づいた件
わたしはこの1年半くらいで
これまで力を入れてきたこと、や
固執してきたともいえることを
行動面や思考面でいくつか手放してきたのですが。
それを手放すにはそれなりに勇気が必要で、
でも手放してみたら意外と大丈夫で。
そんな話をこの前コーチ仲間としていたときに
あのころは、どうしてあんなに
必死になっていたのか、
なにが不安だったのか、
と振り返っていて、
ふと「居場所」という言葉が浮かんだ。
「そうか、、
わたし居場所がほしかったのかも。。
ここにいていいよ、と認められたくて、
がんばっていたのかもしれないな」
と話して、
「そんなふうにこだわらなくても、
無理をしなくても、
そこにいられるし、いてよかったのにね」
とふたりで笑った。
*
それから考えてた。
そういう意味では(どんな意味だw)
会社を辞めて、専業主婦になったあのころから、
わたしずっと「居場所」を探し、
求めてきていたよね、と。
そう。
あのころからの、長い長い道のりだったのだ 笑
*
せっかくなので、振り返ってみる。
長く働いた会社を辞め、
子育てに専念することにしたあのころ、
わたし自分にはもうなにも価値がない、と
本気で思ってた。
仕事を失い、
もうわたしには子育てしかないのに、
なりたかった“いいお母さん”にも
なれそうにない。
『わたしには、なにもない』
ひとり取り残されたような
どうしようもない空虚感にさいなまれてた。
だから、また仕事をしようと思った。
仕事をはじめたら「居場所」を取り戻せると
思ってたから。
でも、
そうしてなんとか仕事をはじめてみたものの
自分の中にぽっかり穴があいたような感覚は
埋まらなかったんですよね。
どうしてだかわからなかった。
どうしたらいいのかもわからなかった。
だから、長い間、
いろいろもがきながらもずっと、
自分の中の空虚感にモヤモヤしながら
生きてきていたのです。
*
今回、あのころを
振り返ってみて思うのは、
居場所を求めていたわたしが埋めたかったのは
「孤独」だったんだな、
ということ。
そして、
わたしを孤独にしたのも
そこから救えるのも
わたし自身だった、ということ。
それに気づけなかったのは
わたしはひとりではなかったからかもしれない。
家族も、大切な娘たちもいたし、
子どもが産まれてからだって、
いつも助けてくれる、頼れる楽しい友だちたちが周りにいた。
仕事仲間にもいつも恵まれてきた。
みんな優しくて、
わたしはひとりだったわけじゃなかった。
そうかんがえてみると、
わたし居場所を求めてきた、といいながら
あのときもあのときも、居場所がなかったわけではなかったのですよね。
でもなぜか不安で、
それをどうにかしたくて、
そのためのなにかを求めてた。
自分のなかにあいた穴を埋めたいのに、
どうしたら埋まるかわからなかった。
今思えば
なにが不安なのか、もわかっていなかったし、
穴の正体がなにかがわかっていなかったから
動けなかったのだけど、
その正体が、
先にも書いたように、
「孤独」だった、というはなしなのです。
それは、「”内側の自分”の孤独」
どうしてそうなったかって、
わたしがわたし自身を
ちっとも認めてなくて、
全然好きじゃなかったからで。
わたしはずっと、
自分のことを見ず、
自分の声を聴くことなく、
自分がもっているものに目を向けず
今の自分にないものを求め、
“自分がやってきたこと、やっていること”にOKを出せずに
“できていない自分”を責めて追い詰めてきた。
そうやって、
わたしはわたし自身を孤独にしてきていた、
というわけだったのです。
*
じゃあいつからわたしは孤独だったのか。
子どもが産まれてから?
ううん、たぶんそれより前も、ずっとだ。
内側にその孤独を閉じ込め、
外側を固め、
気づかないようにしてきただけだったのだと思う。
たとえば社会人になってからは
「会社」「仕事」という属性で自分の外側を固めてきた。
仕事の対価としての収入を得て、
そのお金で手に入れた服やアクセサリーで飾り、
自分なりにおしゃれしたりと外見を整えてきたこともまた
固めてきた外側の一部。
それが仕事を辞めたことで属性を失い、
それによって支えられてきたこと、できていたことができなくなり、
外側の壁ががたがたと崩れた。
それがきっかけに
内側の自分の孤独が露呈したのだけど、
それに気づけないまま
わたしは一生けんめい、
かつてあった”外側”を取り戻そうとした。
でも露呈した内側の孤独は、
また前のように外側を固めようとしても、
「ないこと」にはならかった。
心に穴をのこし、
その存在をわたしに気づいてもらうことを
ずっと待っていたんだなぁと、
今は思う。
あれから何年くらいかかった?
長かったーーー笑
ようやく気づけた内側の自分とその孤独、
「癒してきた」といえばそうなのかもしれないけど、
特別なことをしてきたわけではない。
そうだったのね!と気づいて
そっか、そっか、と自分の中で咀嚼した、
ただそれだけなのだ。
そうしたら、
いろいろなことが、いい意味で「まあいっか」となり、「これでいいんだね」となった。
…という感じ?笑
(ああ、だれかわたしに語彙力をください笑)
これに気づくことがなかったら、
どうしていただろう。
あのころ、外側を失うことがなかったら、
内側の自分を一生閉じ込めて生きていたのだろうか。
いや一生なんて無理だったよね。
人生のどこかで、
いつか外側の壁が崩れるときがきたはずだ。
いつか気づくべきだったし、
苦しくても、取り組まなければいけない人生の課題だった。
そう思うと、長い道のりだったしずいぶん遠回りをした気もするけれど、ここまでがぜんぶが必要で、最善だったのかもしれない。
なにより、
気づいた今のほうが、ずっといいし、
もう戻りたくないもんね。
***
心から出会ってよかったと思えている、
大好きなサービスをお届けしています。
***