女の髪、女なるものへの想い
髪が一本、落ちている。
髪の毛一本でも、こんなにも綺麗なのかと
驚かされる、
女の髪。
女に聖性を感じる性格だった。
いつだったか、スーパーかコンビニかで
買い物をして帰ってきたら、
ビニール袋のなかに女の長い髪が一本、
いっしょに入っていて。
店員さんの髪が混ざったのか知らんけど、
なんだかものすごく大切なものに思えて、
愛読している本に挟んで
しおりみたいにした。
(10年以上経った今でもそのまま残ってたりして苦笑いさせられますね)
そんなことを思い出しながら。
そう。いま自分の部屋に落ちているこの髪は、
まぎれもなく自分自身のもの。
あれほどまでに憧れつづけた、
たったの髪の毛一本にすらも、
とてつもない価値があると思えた、
女という存在。
個々の女性は性格悪かったり、わたしのことなんて相手にしてくれなかったり、良いと思ってもいつのまにかケンカばかりになっていたりして、なかなかうまくいかないものなのかもしれない。
けど、
個別の特定の女性、という以前の、
『女なるもの』への憧憬と、敬意。
思い返せばわたしには、
この想いが尽きたことは、
ただの一度もなかった。
夢を見ること。
胸がいっぱいになるくらいに、
憧れを抱くこと。
憧れを育み十数年、
なんということだろう!
いま、わたしの部屋には女がいる。
わたしはわたしの部屋に、
女を招き入れた。
わたしは日々、彼女の痕跡を目にしながら
暮らしている。
クローゼットの服たち、
ピンク色の毛布、
大きなクマのぬいぐるみ、
そして、
ところどころに落ちている、髪。
え!?
あたし女の子と住んでるんだ??!?
この子の生態は、
どれほど観察していても
まだ不思議に思える。
そして何より、
この子の生態を知っているのは
あたしだけ。
よそゆきの格好をしてないときは
野生動物みたいだね。
ひとりきりで、
(とくに男性の視線が無ければ)
まったくの無防備で。
女なるものへの憧憬が
とてつもなく強かったわたしは、
言い換えれば、
恋愛という一般論に着地させることが
どうしてもできない性質でもあった。
個々の女性の、個性とか容姿とかは、
ほんとうにどうでも良くて、
『女なるもの』を体現しているかどうか、
だけが重要。
松村潔の水素論を援用すると、
個性とか性格とかは
ただの歪みでありh48とかh96ですから。
『女なるもの』H12を
そのまま崇拝していたわたしには、
個々の女性に対しても、
過剰なまでに美化する以外の接し方は
知らなかった。
(もちろん恋愛としては100%の確率で破綻します)
それが、まさか、こんな展開になるとはね。
『女なるもの』H12を体現していて
くれさえすれば、
自他すらもどうでもよかったのだ!
わたしはわたしの身体を
『自分自身である』と
思えたことは一度もない。
まるで、ペットでも飼っているような感覚で
この身体と接してきた。
仏教徒のなかには
肉体をまるで汚物のように見る流派もある。
その感覚もわからなくはない。
ただし、
わたし自身は
女に聖性を感じる性質ですから!
しかも
ここでいう『わたし』には
肉体は含まれていないのだ!
まさかね。
いまやすっかり女の子になってしまった
この身体を愛でて。
この子(身体)は『ペットのように』従順で、
人格は肉体から独立してしまっているが故に
余計な個性=歪みを持たず。
気がつけば、
わたし自身の
『女なるものへの憧憬』を
そっくりそのまま体現した存在が
いまここにいて。
基本的に、肉体を他人と交換するのは不可能だから、
わたしは生涯この子と生きてゆく。
この世にいるかぎり
『絶対に離れることのない』この子が
女の子だなんて。
こんなにも素晴らしいことって、
ほかにあるだろうか??
愛すべき女の髪、
好きなだけ撫でたり触ったり。
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