「自分に与える=相手にも与える」という方程式
ある人に、予定をキャンセルするメールを送るため、その文章を書いていて、ある感情に気づいた。
それは、申し訳ないという想いと、図々しいかな?という想い。
予定をキャンセルするって、自分が意図してない場合でも申し訳なさが出る。
たとえば子どもの体調不良とか、予想してないトラブルが起こることは、人生のあるあるだろう。
それすらもわたし自身の思考が創っている現実なんだ。
子どもの体調不良や予想外のトラブルってコントロールできるものじゃないし、自分の思考が創ってるなんて思えないんだけど……。
と、思っていたが、もし本当にわたしの思考が創っているのだとしたら?と考えてみた。
たしかにわたしの思考だと、納得。
どういうことかというと、もし予定通りにことが運んでしまうと、必ず変化が起きる。
どんなことだとしても、行動した結果と行動しなかった結果はちがう。最近記事にしたできごとでも同じことを書いている。
つまり行動してしまうと必ず変化が起きる。脳は安心安全を求め、変化を嫌う傾向にある。
変化すれば安心安全が脅かされると。だから変化を好まず、変化しようとすると、変化しない現状維持の方向へと潜在意識が必死に働きかけるのだ。
そう、わたしは変化を止めるため無意識にそのための思考を働かせていたのだと。
その結果、キャンセルせざるを得ないできごとを現実化したのだ。
まてまてまて、そう考えると、思考が現実化するのが早くなっていないか?
まぁいったんそれは置いておこう。
話を戻す。
予定をキャンセルするメールの内容で、断ることは申し訳ないという想いがある。それに加え、また機会があればというのは、図々しくないか?と思ったのだ。
でもその断る理由が子どもの体調不良であったり、予測不可能なできごとであれば、その罪悪感も少しは軽くなるのでは?という卑劣な思考が創り出した現実なのだろう。
断る=罪悪感
自分の中にこの思い込みがあれば、もしわたしとの約束を断る人がいたら、罪悪感を覚えてもらわないと気にくわないと思ってしまうハズだ。
いやいや、自分のことはいいんだよ?わたしは断られても平気だけど、相手との約束を自分が断るのわね〜。
と今まで思っていたけど、本当は違うってこと。
本音を自分にも隠すというワザを身につけていて見えなかったけど、よくよく思い返してみると、
え、なんで?ありえないんですけど。とか、
本当はわたしとの約束してなんてどうでもいいんでしょ?
なんて思って、相手を攻撃し自分をも傷つけていたんだってことに気づいた。
自分はダメだけど相手はいいんだよって本気で思ってるわけがない。
遅刻するのはダメって自分のルールがあるのなら、相手にもダメって本当は思ってるハズなんだ。
自分の本音にも気づかないフリをしてるから、断ることは社会悪で、罪悪感を覚えるべきことなんだよと自分にいい聞かせ、断るという選択肢をしてはいけないことにしていたんだな〜と。
本当の意味で自分に断ることを許可できれば、相手がわたしとの予定を断るという選択肢を与えられるんだ。
自分に与える=相手にも与える
この方程式を受け入れられれば、わたしも相手もWin-Winの関係になれるだろう。
このできごとからほかの気づきもあったので、いつかそれもシェアしてみたいと思う。