⑧情報過多から子どもを守る
私の娘はいわゆるZ世代で、生まれたときからデジタル機器に囲まれて育っった新しい世代です。生まれた頃、もちろんすでにPCや携帯電話(いわゆるガラケー)は一般化していました。物心つくころからは、つぎつぎとスマホやタブレットが身の回りに登場し、私たちは日常的にデジタルを通して情報の洪水に浸されていきました。
子どもが生まれたとき、私と夫は、このような情報過剰の環境が子どもに良くない影響を与えるのではないかととても心配していました。当時はスマホを幼児に見せっぱなしにするいわゆる「スマホ育児」はまだ問題になっていませんでしたが、それでもテレビやDVDを見せっぱなしにしてその間に親が家事をするなどという話は、身の回りでもよく耳にしました。
私たちが子どもだった頃と、娘たちの時代は全く違う(まるで違う星に育ったというほど!)ので、単純に比較はできません。人類の歴史をみても、このようにデジタルな情報が子どもたちに浴びせられ続ける時代は現代が初めてですから、この環境が子どもたちに短期的・長期的にどんな影響を与えるのか誰もわかりません。社会全体で子どもたちを使って壮大な人体実験をしているようなものです。それでも、自分たちの子ども時代とあえて比べるとするならば、現代に成長する彼らがこれにより圧倒的に影響を受けるだろうという予測はたちました。
たとえば、夕食を準備する間40分動画を見せておくとします。とくに仕事を持っている親にとって食事の準備は忙しい合間を縫ってしなければならないことですから、その間だけでも子どもがなにかに集中してくれればこれほど助かることはありません。しかし、その40分の間、光と音の刺激の洪水に「受動的に」彼らは身を任せることになるのです。子ども向けの番組であっても、とくに物心つく前の子どもにとっては刺激過剰です。子どもは、恐ろしいほどの集中力をもって画面に見入りますが、それを大人が「楽だから」と与え続けるのは危険ではないか、と私たちは考えました。ですから、少なくても1歳半くらいまでは、たとえニュースなどでもテレビやモニターの画面が子どもの視界に入らないように気をつけていました。夫も私も、双方の親の教育方針から、当時全盛だったテレビを自由に見せてもらえない環境で育ちました。私の父は、NHK以外は見ないという人でしたし、夜7時のニュースが終わると一方的にテレビを消してしまいます。子どもだった私は、学校で話題になっている番組を見せてくれない父を恨んだこともありましたが、今思えば、その分夕食後に家族でおしゃべりしたりお風呂に入ったり、ゆったりした時間が流れていたように思います。
ですから私たちは、それよりも、子どもがなにより外の世界と「能動的に」関わるように心がけたいと思いました。そのためにはまず、身近な大人が、日常のちょっとした機会に子どもに働きかけることが大切ではないでしょうか。たとえ言葉を話せるようになる前の乳児であっても、「気持ちがいいね」(おむつを替えるとき)、「あれはなんだろうね」(散歩の途中に出会った鳥を指差しながら)、「ここを押すとどうなるかな?」(ぬいぐるみの鼻をつつきながら)などと、できるだけ話しかけていました。ただし、話しかけるのが教育上良いからと思って意識的にやったというよりも、子ども相手でも対等に話しかけながらでないと、ただでさえ孤独に感じがちな赤ちゃんとの時間を自分が乗り切れなかった、という母側の事情もあります。
映像や動画をできるだけ避ける育て方をした結果、ある出来事が印象に残っています。娘が3歳位だったと思いますが、ある絵本の美術館に連れて行ったことがあります。夏休みの期間で、そのときちょうど、ピーターラビットが特別展示のテーマになっていました。絵本のピーターラビットは何度も読み聞かせ、娘のお気に入りの一冊でしたので、家族でとても楽しみにでかけました。入り口を入ったところの広いホールの大きなモニターの前で、ピーターのアニメが上映中でした。大画面の前には小さな椅子が並べられ、すでにたくさんの子どもたちがそこに座って画面を夢中で見ていました。私たちが着いたとき、ちょうどピーターがいたずらをして、隣のマクレガーさんに畑から追い出され、追いかけられるシーンをやっていました。すると突然、娘が大声で泣き出したのです。「ピーターが!、ピーターが!」と叫んでいます。まわりの子どもたちはなにが起こったかわからず、そうした娘の様子にびっくりして、きょとんと娘を見守っています。
なぜ娘が取り乱したかというと、彼女にとってそれまでピーターは絵本の中の住人でした。寝る前に私か夫の声で読んでもらい、好きな場面は「も、いっかい」と言いながら、自由に想像できる対象でしたし、自分の好きなペースで物語が運ばれていくことを楽しんできたのです。それが突然、動く映像として目の前に現れ、BGMまでついて自分に迫ってきたことに驚いたのでしょう。おじさんに追っかけられるピーターの身の上が、かわいそうでかわいそうでたまらなかったのだと思います。
もう一つ印象的だったのは、周囲の子どもたちの反応です。おそらく、彼らはそうしたアニメーションを幼い時から見慣れているのでしょう。みんなおとなしく見入っています。この経験を通して、子どもは、過剰な音や映像にも、さらされ続けるとごく自然に難なく順応していくことを、あらためて感じさせられました。順応は一見良いことのように思われますが、しかしその分、感受性のなにか大切な部分が失われていくのではないかと思いました。
実は娘のこの傾向はかなり大きくなってからも続きました。娘が小学校へ入学し、放課後に学童保育を利用するようになってからのことです。夕方、迎えに行く予定の時間よりずっと早く、娘が指導員の方から電話を借りてかけてきました。結構切実な声で「帰りたいから、すぐ迎えに来て。」と言います。仕事の都合もあり、困ったなと思った私は理由を尋ねました。「ハリー・ポッターをやってるから。」
学童保育では、週に一回、子どもが好みそうな映画やアニメの上映会がありました。ハリー・ポッターはその頃子どものみならず大人も巻き込んで大人気で、うちにも本がありました。いつ頃から読み聞かせを始めたか覚えていませんが、娘も好きな作品でした。それがリアルな映像になって迫ってくることに耐えられなかったようです。「どこまで見たの?」と聞くと、「マクゴナガル先生が猫に変身するとこ」と答えます。「え、それってすごく最初のところじゃない?」「だって、怖かったんだもの」と、迎えの車の中でも青い顔をしていました。「他の子は?」と尋ねると、「みんな、平気。もう何回も見たって子もいるよ。」
確かにハリー・ポッターの映画は、ハラハラドキドキする場面が多く、面白いし、魔法学校の雰囲気などよくできています。けれども、それが映像として迫ってくるとなかなか怖い、というのも分かる気がします。その後、ハリーの本は好きで全巻買い揃えることになったのですが、結局映画は小学校高学年になるまでは見ることができませんでした。
映像は、光の刺激、音の刺激、目まぐるしく変わるカメラワークなど、刺激に満ちています。映画好きの私は、その魅力を愛する一人でもあります。けれども、ことに子どもにとってその情報、刺激の過剰さが、かれらの想像力の最も大切な部分を壊してしまうのではないか、という危惧を今でも持っています。その過剰さによって、子どもたちの生きるリズムが破壊され、想像する世界を限定してしまう、そういう危険性です。ですから、特に幼い子どもには、ぜひ、絵本を読んだり見たりするという、アナログな時間を楽しませてあげたいと思います。
もちろん彼女も、かなり達者に言葉を話すようになってから、Eテレの子供番組を楽しむようになりました。そのときでも、なるべく一人きりで見せっぱなしにしないで、誰か大人が一緒に見て、会話しながら見るようにしていました。番組のなかの歌を一緒に歌ったり、画面にでてくる宮沢賢治の詩をいっしょに唱えたりしながら、私も楽しみました。これは、食事の支度をしながらでもできます。
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