道徳は学問を学ぶ上での十分条件だという話
道徳、という教科は中学校で終了し、高校では存在せず、あっても倫理という教科として社会で登場する。(今は違うとかだったらごめんなさい)文章を読み、そのあとに「自分だったらどうするか」や、「なぜこういう行動をしたのか」、「意見を交わしてどう思ったか」などをテーゼとして与えられ、周りと話したりしながら自分なりの答えを提示する。その答えに正解がない、というのが特徴で、テストはほぼなく、点数もつけられない。私の大好きな教科だ。
しかし、正解がない故に学ぶ意義も人によって揺らぐことは明確だ。必要ないと考える人もいるだろう。「道徳なんていくらでも嘘がつける欠陥教科だ!」「結局みんなの中に答えがあって俺は恥をかいたぞ!」
わかりますわかります。そもそも書面上で行われない教育について30人の考えを一人一人尊重してまとめるなんて無理なんです。しかもそれを50分でやるのだからなおさら大変です。でも、道徳心をみんなの前で確認しないと、大人になる権利が得られませんよ?
私は道徳を、大人になる権利を得るための資格講習会だと思っている。どういうことか、を説明する前に、「道徳なんていくらでも嘘がつける欠陥教科だ!」と言った人は正しいかを考えてみる。
先程欠陥教科だと言った人は、後先考えない利己的な嘘を子供の頃からついていて、今もその習慣を改められなかった大人が大半だろう。もしくはグループワークでロクに発言もせずに冷笑しながら道徳を馬鹿にしている中学生か。なぜそう思うか、それは、その発言の中に「子供はすぐに嘘をつく」という前提が含まれているからだ。そしてそう考える理由には、自分がそういった嘘つきで、もっと言うと自分の子供もそうなっているという状況が存在していると私は考える。
しかし、私は子供がすぐに嘘をつくとは思わない。もちろん嘘をつく子供がいないとは言わない。子供が嘘をつくのには理由があり、その理由は子供ではなく環境にある。
子供が嘘をつくとき、言い訳となるのは、「怒られたくないから」「舐められたくないから」「いじめられたくないから」が大半だろう。嘘をつく動機が生まれるのには、周りからの反応が強く関係しているのだ。もし大声で怒鳴る親や先生がいなければ。簡単に馬鹿にすることがなく、いじめを行う同級生がいなければ、子供は自分から嘘をつく事なんてないのだ。
そして点数がつかない道徳の授業に対して先生が叱る(怒る)ことはない。前を向いて授業を受けなかったり、友達とおしゃべりしかしていなかったら流石にどんな先生も叱ると思うが、基本自由な評価に加えて話す事が授業内で認められる道徳という授業の特性上、人間は余計に疲れたくはならないはずだからだ。
しかし、周りの同級生については懸念が解消される根拠を提示できない。人を小馬鹿にし、いじめる事に理由はなく、例え道徳の授業が理由でいじめられたと言われてもなんらおかしい話ではない。
だからこそ、嘘をつく理由が道徳という授業の特性に帰するという意見には頷くことはできない。道徳という教科が十分な会話を必要とするから「いじめられないためにうそをつく」という論理が成り立ってしまうだけで、別に普段からよく人と交流し、会話を日常的にする人なら、道徳の授業に限って「いじめられないためにうそをつく」なんて事はない。道徳の授業は問題を表在化させているだけで、問題が起こる理由ではないのだ。
という訳で、「道徳はいくらでも嘘がつける」という部分には若干の論理の飛躍が認められる。(「結局みんなの中に答えがあって俺は恥をかいたぞ!」という意見には後ほど反論する。)本題の"道徳は学問を学ぶ事の十分条件だという話"に移ろう。
私は、学校には"教育"と"学習"という二つの側面があり、またその比率が変化していくと考える。
"教育"は社会規範や人格形成、健康と生活についての教えだ。そのため、生徒には受動的な態度が求められ、体育や副教科、授業外での遊びや説教もこれに含まれる。
また、"学習"はテストで測られる、個人の能力を上げるための教えだ。教育と反対に、積極的であれば学習と認められる。主要教科でなくとも、何か目論見があって行動すればこれに含まれる。
その比率が、以下の様に推移する。
機関 教育 学習
小 8 : 2
中 5 : 5
高 2 : 8
※大学は研究機関としての位置があるため、教育と学習の2項で存在しない。
このことを前提とすると、なぜ道徳は中学までに終わるのかが分かりやすいだろう。教育が重きをもつのが中学までだからだ。道徳は言うまでもなく社会規範を形作る教科であり、教育の一大要素となり得る。逆に学習は個人個人の能力を上げるための体系的な努力で、それは全ての人間に必要なものでないから、義務教育の外に重きをもつ。
ではなぜ、教育が子供の頃に重きを置かれているか。それが、今回のタイトルにもある様に、「学問を学ぶ上での十分条件」だからだ。
学問の結論は、大きな力に辿り着く。火薬が発明されなければ、マッチを擦る事は無かったが、ピストルを撃つことも無かった。ウランの放射線についての研究が無ければ原子力発電は無かったが、核兵器も無かった。
もちろん、学問を否定したい訳ではない。技術は実験、実践を経て利用へ向かうため、失敗は健全なものであるし、そもそも全員が全員学問を自らのものにして強い力を得る訳ではない。
だから、学問を学んだから強い力が得られる、というのは万人に当てはまるものではない。
だが、学問が無ければ発明は無く、発明が無ければ技術はない。技術は私たちに行動の可能性を広げてくれるものであり、大きな成功と大きな問題を生み出す大きな力だ。
例えば、戦争、核兵器、公害、温暖化、食品不信、クローン生成、デザイナーベビー、人口爆発からの労働問題、シンギュラリティによる人間の奴隷化。どれも技術の発達が祟って起こってしまう問題だ。しかし、これから起こりかねない問題を起こさない様にするただ一つの方法が道徳規範を強化するという事にある。
学問を学ぶ上で、論理を紡ぐことはとても大事だ。A=B,B=C,なのでA=C、というように。ただ、その中で、必要性の論理と自らの正義がぶつかる事がある。生き物を殺す事は本来いけない事だが、今もなお、薬品の治験や行動の統計材料としてモルモットは生き、死ぬ。生物の研究のためならモルモットを殺してもいいのか?食べる為に牛の赤ちゃんを殺してもいいのか?まったく。殺すのが許されるなら地球の癌である人間を殺せ。(これが道徳の失敗例である。)
こうして、本来許されないはずの行為が、必要性によってなされる。技術を生み出す者は、必要性を導くための論理を必死に演繹させ、あたかも本来許されない行為が必要で、一つの正義として成立しているかの様に振る舞う。社会共通の正義が必要性に蝕まれた末に、社会全体への不利益をもたらしてしまうのだ。
これに対抗するのが、良心だ。脳に司られる理性に対抗するには、心の根本にある良心しかない。論理的道具主義を、根本的良心によって制御するのだ。
しかし、良心とは何か。人間なら誰でも生まれながらに持っている、善であろうとする心だ。とは言っても、人間が生まれながらに持っているものなんてあるのか。確証は得られない。ただ、なんとなく、してはいけない事の判断は子供でもできる。その判断材料が良心だ。
その良心が間違っていたら?もう暴走した論理は何にも止められない。5人の作業員がいるレール上にトロッコを走らせてしまう。だから、共通の良心を確認し、獲得する事で、私たちは論理を制御する方法を理解し、学問を学ぶ資格を手に入れるのだ。
そのため、最初に言われた「結局みんなの中に答えがあって俺は恥をかいたぞ!」という反論は逆説的だが当然のことだ。自由な討論に正解はないが、みんなの中の答えはある。これは、その話題の答えが、全員で照らし合わせて初めて分かるものだからだ。観測するまで、いくら考えても答えは出現しない。
故にこの授業では不正解が出るのが普通だ。常に正解でいたい人は、周りの意見を伺って、それに合わせればいい。まあ、そんな失敗を恐れ続ける人は、学問を学ぶ素質がないので、関係ないのだが。
これで話は終わりだ。今回は話が長すぎた。これでもトロッコ問題やラッセル=アインシュタイン宣言の部分や地球破壊の期待値、「晩年に想う」の部分はカットしたのだが。話した事を整理すると、
論理が必要性に駆られて、社会全体の不利益をもたらすことがある。そのため、良心で制御する。その良心は子供の頃しか規制できないため、義務教育内で「道徳」として、良心の確認の時間をとる。と言う訳だ。
良心は子供の頃しか規制できない。じゃあ、教育を十分に受けれなかった現大人はどうしようもないのかと言うと、そうではない。大人には礼、作法がある。子供の頃に内面を磨いた後に、礼、作法を身につける。それが、正しい行動規範を選択する近道となる。
仁、義、礼、智は願わくば全て手に入れたいが、まずは現自分に合うものを知る所からだ。
道徳の受け方がわかったら、どんどん失敗して、間違えて、思慮を深めてほしい。正義がぶつかる体験をして、社会性を高めてくれる。学ぶ意義が分かってきただろう。そうしたら大人になる資格に合格だ。おめでとう。
ガキが。(不道徳)