極右の台頭とアカデミズム信仰
アカデミズム信仰
かつて、アカデミズムが一種の知的聖域として君臨していた時代には、カントやマルクスを読み通すだけで社会の仕組みが解明されたような気分に浸ることができた。
カントの「永遠平和のために」やマルクスの「資本論」は、読者に希望と確信を与え、知識人たちはこれらの理論の信奉者として社会変革の担い手を自認していた。だが、時代は移り変わった。共産主義への信頼が失墜し、大学院生が就職難に喘ぐような時代になると、それらはもはや万能の答えではなく、ある種の「宗教的なノスタルジー」として消費されるだけの存在になりつつある。
確かに、カントやマルクスが持つ社会分析のポテンシャルを否定することはできない。むしろ、それらの理論が現代の複雑な社会問題に応用可能な部分を多く持っていることも事実だ。
しかし、いざ具体的に社会を変える段階になると、その限界も露わになる。たとえば、カントが掲げた「永遠平和のために」の理念がいかに崇高であっても、それが現代政治のリアルポリティクスに通用しないことは、アメリカでトランプ政権が誕生した事実を見れば明らかだ。グローバル化やポピュリズムの波は、理念的な哲学を嘲笑うかのように世界を飲み込み、理想主義の居場所を奪ってしまった。
それでもなお、一部の人々はこうした理論をノスタルジックに信じ続けたいと願う。
学問を宗教的な形で消費し、カントやマルクス、その他の哲学者を否定神学の一種の偶像として崇めるような姿勢。こうした人々は、過去の哲学者の言葉を借りて自分の正当性を主張しながらも、現実の課題に向き合う覚悟を持たず、その結果、図らずも学問それ自体を愚弄している。
思えば、日本におけるアカデミズムは、もともと海外からの輸入文化であった。西洋の哲学、科学、理論が流れ込み、それを吸収することで風通しを良くし、世界とつながる回路を作り上げてきた。だが、風通しを良くしすぎた結果、外来の理論や枠組みに頼り切る「受動的輸入」の構造が強まり、アカデミズムへの信仰にも似た姿勢を生み出すこととなる。
しかし、人間が絶対性を求めることそのもの、もっと言えば他者との共通の規準や価値を求めることそのものを否定することはできない。
問題は、絶対性や規準を求めるその手段の「安易さ」にある。今日、アカデミズムはしばしばその役割を担ってきた。
哲学、科学、政治理論――それらへの「信仰」は、思考を深める手段であると同時に、人々が複雑な現実を単純化し、安心感を得るための装置ともなっている。これに依存することで、私たちは未知や不安に対する免疫を得ているように錯覚する。
だが、山上徹也が現れ、右傾化する欧米を前にしながら、いつまでも「受動的輸入」にとどまるわけにはいかない。
山上の行動が示したのは、受動的な枠組みに従う(搾取される)だけでは満たされない不満と、どこにも依拠できない漂流する価値観の危うさだ。
この問題に向き合わなければならないのは、日本だけではない。右傾化する欧米諸国の姿は、グローバリズムの影響下で分断を深めた社会が、規準を求める際に陥る暴力的な帰結を如実に示している。
絶対性や共通の規準を求める欲求は避けられないが、それをどのように実現するかは、これからの私たちの選択にかかっている。それはアカデミズムに対する盲信から脱却し、具体的な行動や表現――(ネット配信やnoteなどを含む)広義のアートにおける新しい挑戦を通じて可能になるだろう。
おまけ
ややシリアスになりましたが、要は「自分で何かやってみよう!」ということです。
いつもこんな辛気臭くてはやってられないので、なるべく明るくやりたいと思います。
手引きになれば幸いです↓
元ネタ↓
https://note.com/chaosforest/n/nf2123830b4aa?sub_rt=share_b