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読了本感想⑪『地球にちりばめられて』/多和田葉子
意識高めの大学生が夏休みにするような、いわゆる「自分探しの旅」みたいなものに、私は昔から懐疑的でした。
それがどんなに無謀なものであっても、どんなに低予算のものであっても、やむにやまれぬ理由で行われた放浪ではなく、自ら望んだことによる放浪は、エンタメに過ぎないと思っていたからです。
その旅でどれ程の負荷や困難がその人に襲い掛かろうとも、帰る場所のある旅は、結局、筋トレの負荷と同じような、自分自身の再強化、変わることのない今の自分の追認にしか、繋がらないと思っていたからです。
もし、謎に包まれた「本当の自分」に出会いたいと思うなら、(もしそんなものが本当にあるとするならば、の話ですが、) そんな中途半端な旅ではなく、自らの生存を掛けたような、自分のアイデンティティを一度バラバラにしてゼロから作り直すような、そんな本格的な旅でなければ意味はないと思うのです。
とはいえ、彼らの気持ちは私にもよく分かります。むしろ、若い頃より今のほうがよく分かります。
自らのアイデンティティが揺らぐことなど全く持ってあり得ない日々。
自分の言葉が周囲の人々に伝わることが当たり前だと思って疑うことすらないような日々。
同じ部署内だけで通じるジョークを言い合って会社の同僚と薄っぺらい笑みを送り合う日々。
そんな自分の置かれた状況に心の底から嫌気がさすことがあるからです。そんな環境にぬくぬくしている自分自身に、言い知れぬ嫌悪を感じることがあるからです。
本質的な他者のいない安穏としたそんな場所では、自分と相手との境界線は酷く曖昧なものであり、両者の会話は一見ダイアローグ見えますが、実はモノローグにしか過ぎないのです。全てが大きな声の独り言でしかないのです。アイデンティティを揺るがすどころか、今のアイデンティティをさらに強固にするための、甘えを含んだ独白でしかないのです。
そんな日々を捨て去って何処か知らない場所に旅に出たい。本質的な他者と出会い、彼らと命懸けのコミュニケートをする中で、新たな自分をゼロから作り直したい。そんな気持ちになることが、少なからずあるからです。
コミュニケーションというものは本来は不可能なのが当たり前で、可能なのが奇跡のようなことのはずです。すっかり忘れてしまっていたそういう事実に、もう一度出会ってみたくなるのです。
その点、本作の主人公であるHirukoの陥った状況というのは、図らずもそういった本格的な旅の様相を呈しています。
日本と思しきHirukoの母国が、何らかの理由で消滅してしまっているからです。
そんな中彼女は自ら作った独自言語『パンスカ』などを使うことで、何とかかんとか周囲の人々と会話をし、自らの生存を計ります。
自分の言いたい事が相手に伝わるか伝わらないか、彼女にとっては一語一語が毎回真剣勝負です。拠り所はネーションでも会社などの組織でもなく、自分で作った独自言語と、自分自身だけなのです。
その姿は酷く頼りないものに見えますが、同時に、私の目にはものすごく自由なものに映りました。
きっとそのような命懸けのコミュニケートを経た上で作り上げられたものだけが、真の意味でのアイデンティティ、「本物の自分」なのだと思うからです。
……そのような本質的な他者に出会ってコミュニケートをすることは、この先我々にはあるでしょうか?
グローバル化が進み切った今の世界では、もう難しいのかもしれません。世界中の何処に行ってもマックがり、スタバがあり、セブンイレブンのある世界では、もう困難なのかもしれません。世界中の誰もがNetflixの同じドラマを見ているような世界では、もうあり得ないのかもしれません。
本質的な他者。
他者性を持った真の他者。
他者他者しい他者。
そんなものはもう、観念の中にしかいないのかもしれないのです。フィクションの中にしかいないのかもしれないのです。つまり、バックパックを背負って外国に旅に出るよりも、家の中で小説でも読んでいるほうが、本質的な他者に出会える可能性が高いのかもしれないのです。
要するに、今回の文章で私が意図したことは何かと言えば、よく言うならば読書のススメ、悪く言うならば旅に出るどころか外にすら出ずに休日に家の中でゴロゴロと本を読んでいる自分自身の全肯定、ズボラなアイデンティティの再強化、ということになる訳です。
未読の方は是非!