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雑感

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本とか、本以外のいろいろなことについて。
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『うんこかん字ドリル』をめぐって

 学校で話題になったらしく、娘から『うんこかん字ドリル』を買ってほしいとせがまれた。『うんこかん字ドリル』とは、数カ月前に発売されるや爆発的に売れた「全例文に『うんこ』を使った、まったく新しい漢字ドリル」で、「子どもが夢中になって勉強する!新学習指導要領対応」とのこと。  買わないぞ! だって、あれがうんこのたのしさのすべてだと思い込んでしまったら、子どもがかわいそうじゃないか。最初から「うんこ」と書かれたドリルの、どこにどんな魅力があるというのか。あらかじめ落書きが印刷さ

髪の毛の匂いを嗅ぎ合う歌について娘と話し合ったりした大晦日

 昨年の大晦日はものすごく久しぶりに「紅白」をまともに見た、3分の2くらいまでだけど。なぜか見たかというと、娘(8歳)が星野源が大好きで「星野源が出るまでずっと見る」と言い張ったからで、なぜ3分の2くらいまでかというと、ちょうどその頃に星野源が歌い終わって舞台を去ったから。以下はその際に娘と交わした会話。 娘「いやー2016年の終わりに星野源が見られて本当よかったー」 私「そんなにいいかなあ」 娘「え、何いってんの好きじゃないの?信じられない」 私「いや、君が2歳くらいのと

ビビアン・スー曰く「誰もみんな、君のようならいい」

 私がいわゆる〝多感な時期〟を過ごしていた1990年代のJポップ。なかでも街で、コンビニで、テレビで、ラジオでひっきりなしに流れるものだから覚えてしまったけれども、そう熱心に聴いていたわけではないからちゃんとは覚えていない曲たち。時を経てそういうのを聴くのは、なんかいい。といっても、そこで歌われている劇的な恋とか苦境とか運命とかにはちっとも感情を移せない。ただ当時は気づけず聞き流していた妙なフレーズとか、予想外に素晴らしい言葉とかを探し歩くのが楽しいのである(見つかるのはたい

カレーのこととなると、つい。

 むかしよくいったカレー屋を久しぶりに訪れたら、ほとんど何も変わってなかった。よくある話かもしれないが、これは相当すごいことだと思った。連れがいるならまだしも、一人飯で飲食店内にスマホの「カショイ」音を響かせるのは気恥ずかしくて嫌だけど、それでも撮ってしまった。なつかしすぎて。この店のこのカレーを記録しておきたくてつい。  高校生のとき、私はこの店で「カレー」を発見した。振り返ってみればそうだ。もちろん小さい頃から家のカレーや給食のカレーが好きだったし、外食でカレーを食

物体を並べて文字列を作り、空白を想う

 先月末、下北沢ケージで開催された「TOKYO BOOK PARK vol.1」で活版印刷を体験。これが感動的だったので、いまさらながらざっと体験記を書いておこうと思います。  「TOKYO BOOK PARK vol.1」は、代々木八幡の古本屋リズム&ブックスさんの呼びかけで立ち上がったブックフェスの企画。10月末に第一回が開催され、もちろん我がクラリスブックスも本をたくさん売りました。古本屋だけでなく、雑貨やレコードなどのお店もブースを出していて楽しく、ぜひ恒例のイベン

「できるだけ純情でいたい」とのことーー岡村靖幸について

わかってよちょっと 勉強すりゃわかるよ(略)14回もしょげずに  このシンプルにして過剰な物言い。異様な数字の使い方。衝撃だった。アニメ『シティーハンター』のエンディング曲の中のフレーズである。曲名は「SUPER GIRL」、歌い手の名は岡村靖幸。 ■ 8時47分、授業はもう始まってる  少年時代に上記フレーズと出会って以降、私はずっと岡村靖幸のことが気になって気になってしかたなかった。いつもいつでも宿題みたいに気にしてた。なのにずっとまともに聞くことができなかったのは

ナメクジ vs 素っ裸の地球人、そして読書の喜び ―― ロバート・A・ハインライン『人形つかい』

* 2016年は「たくさん読む年」に  私が初めて「小説」というものに激しく感動したのは、中学校の授業で読んだ「伊豆の踊子」(川端康成)だったと思う。「子供なんだ。私たちを見つけた喜びでまっ裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ」に心を射抜かれた。言葉ってすごいんだな、と。以来、文学部、文学系大学院、古本屋、記者業と、振り返ってみれば十数年間にわたって「言葉」と関わる道を一貫して(=偏って)歩んできた(=流されてきた)。ただ、「言葉」に

出会えたかもしれないのに出会えなかった本のことを想像するのは悲しい

 海外の映画や小説がひどい邦題で公開・刊行されることがしばしばあって、世の中には、そういうことに対していちいち怒る人とあまり頓着しない人の2種類がいる。私は自分でも嫌になるほど間違いなく前者であり、たとえば『恋はデジャ・ブ』(※)のことを思い出すたびにイライラする。前回のブログで取り上げたフィリップ・K・ディックの "Second Variety" にも、実は「変種第二号」のほかにもうひとつ「人間狩り」という意味不明な邦題が存在するのだが、そのことについて考えてイラつくのも嫌

本と虫

 年を重ねるごとに、虫に対する考えや感性が大きく変わったという人はけっこう多いのではないか。「生まれながらの虫嫌い」は別として、「ある時期からなんか苦手になって自分でもびっくり」みたいな話はよく聞く。私もそのひとりで、かつて少年時代には夏休みになれば毎日のようにセミを獲り、旅先でつかまえたクワガタに夢中になっていたのに、いまや玄関先の「セミ爆弾 」※ に怯え、子どもがキャンプからカブトムシを連れ帰ってくるとワクワクしつつも心のどこかでほんの少し「面倒だな」と思ってしまう。

こいつのデザインというのは誰が考えたんだ――中島らもと上野動物園

 子どもを連れて動物園に行くのが長年の夢だった。「生まれて初めてゾウを目撃する人間」の表情をじっくり観察するのを楽しみにしていたのだ。  たぶん中島らものエッセイだったと思う。子どもにゾウの存在を教えなかったらどうなるか、みたいな話があった。赤ん坊が生まれたら、とにかくゾウについての情報を遮断する。ゾウのぬいぐるみもゾウのガラガラも禁止、ゾウが出てくる絵本やテレビ番組は見せない、図鑑のゾウの頁を切り抜く、ゾウの歌が聞こえてきたら喚いて音をかき消す、など親が日常的に努力するの

SF礼賛、あるいはなんとなく救われたい願望について

■ SF、といっても食べ物の話  先日、“ 町のおそば屋さん ” という感じのそば屋でそばを食べていたら、厨房から怒鳴り声が聴こえてきた。そこは家族経営の老舗で、発端はどうやら大将のやり方に息子がケチをつけたことだったらしい。しばらく小声の言い合いが続いた後、客席にまでクッキリ聞こえる「仕方なく継いでやるんだ」で本格的な戦いの口火が切られた。大声の「そんなら出てけ」に「ああそうするよ」が続き、2人を必死で止めるおかみさんの声も入り乱れて収拾がつかない罵倒の応酬に突入、ついに

デスピサロのはらがあやしくうごめいたあの日から25年

2015年4月 ■ 会わなくっても、「サイレンノート」であいつとは通じ合っていた  2006年にアクションホラーゲームの傑作「サイレン1」「サイレン2」をクリアして以降、私生活上のさまざまな事情から腰を据えてテレビゲームに 没頭する機会がなくなってしまった。いまや隆盛をきわめるゲーム実況とかゲーム動画投稿とかの芽が育ちはじめたのは、ちょうどその前後くらいのことらし い。  わかりやすい物差しとしてNewzoo(国際的なゲーム専門調査会社)の市場調査資料をみてみると、2

トラルファマドール星人みたいにはなれないけれど、とヴォネガットの命日に考えた

2015年4月  昨日、4月11日はカート・ヴォネガットの命日だったので、仕事の合間に久々にSFマガジンの追悼特集号(2007・9)を手に取った。なんといっても川上未映子の追悼文がよすぎて、とくに見開き左頁の2段 目あたりを読んでると泣きそうになる。どんなところがよいかというと、このことについてはこう書くしかない、としか思えないほど言葉の連ね方がキマッてい るところで、しかも「このこと」というのが微妙でもやもやしてるけどとても大事なことなので余計にすごい。その微妙さとかもや

磯野カツオの背骨は1ミリたりとも伸びない。

2015年2月22日  子どもの頃、テレビアニメの登場人物たちの記憶喪失っぷりに憤りと不信感を覚えることがよくあった。  「つい先週の体験を覚えていたら、そんなことは言えないはずだ」「君たちはあの映画での大冒険を忘れてしまったのか」「こいつらってばまた同じことやってる、バカか?」などなど。  長じるにつれ、登場人物が永久に年をとらないいわゆる “ サザエさん時空 ” という方便を知ったが、理解はできても納得はできなかった。逆に理 解すればするほど、テレビ画面のなかを右往