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[振り返り]ほぼ毎日note49記事目でわかってきた自分と自分にできること。
どうせだったら50記事目に振り返りなさいよ自分。(でももう止められない)(今から変えるの無理)
さて。
さいしょに「毎日更新宣言」をした10月から、もう毎日更新はとっくに挫折してるんだが「ほぼ毎日」で続けているnote更新も今日で49記事目となった。うん。ほぼ50記事ということで、目標の100記事までやっとハーフライン。
といってもべつに100記事でやめるつもりもなくて、ある意味100記事になったときの目標は「もうすっかり習慣になってべつに100記事だからってなんとも感じない、ただの通過点であり日常の1コマ」みたいな平然とした感想が書けることなんだが、ちなみに50記事の時点ではそういう余裕はぜんぜんない。(だから多分100記事でもそこまではいかない、1000記事ぐらいいかないとダメと思う笑)
とか言いながら、この数年ではじめて「楽しみながら頑張って続けている」ので、これが他の人にとって意味があるように見えなくても、どれだけもお金にならなくても、バズらなくても、わたしにとってはとても意義深く、少なくとも誰かに時折「すき」ボタンを押してもらえる、それだけで嬉しい。記事ごとに情緒がちがいすぎて、読んでくださる方にはほんとアレなんだが。(何)今後もそういう情緒不安定でやっていく所存ですので、どうぞよろしくお願いいたします。
っていう、そんな気まぐれnoteの不定期振り返り。
わたしなりの「ほぼ毎日」とは。
もともと毎日更新で100記事を目指してみたけれど、その毎日更新の義務感がしんど!と「ほぼ毎日宣言」をしてからも波があった。で、思ったのがわたしの「ほぼ毎日」とは2週間ほど連続でやって、しばし休む。こういうペースらしい。
気がついたら2日に1記事ペースになってると気づいた前回振り返りを経て2日前までの14日間は連続更新していたのにパタリと2日間お休みして戻ってきたのが今日。
このお休みはまぁ、自分としてはいろいろ事情はあったけど、やっぱこれぐらい連続でやってると今の自分の体力や文章力では枯渇したり疲労したりするということだろうと思う。それまでだってけっこう雑記やら日記みたいな意味のないものもふくめてごまかしごまかしの連続更新なんだけど、それすらもう書けない感じになってくる。
一方で息切れするまでは基本「それでも書く」と決めておくことで、ちゃんとした記事もその合間合間で書けたりする。(ちゃんとしたの定義はあくまで自分基準だけれども)
このペース配分について「こうするのがベスト」といま宣言するのはまだまだ時期尚早ではあるんだが、いまはこの「連続更新→パタリと数日休む→また連続更新」という息切れ寸前の自転車操業が合っているように思う。(どんな体質だよ)
そう言いながら先日「思考の整理学」を読みながらまとめた自分なりの思考の整理ノートはまだ続いていて、それのおかげで以前よりもネタの仕込みがほんのすこし上手になってきた感覚もあり、今後はわたしの言うところの「ちゃんとした記事」が少しずつでも増えたら嬉しいなと思う次第である。
「書けること」「書けないこと」がだいぶ分かってきた。
つぎにこれまでも何度か触れてきた「何を書くか」「何を書かないか」みたいなこと。
これまでの振り返りでは、その「何」というのは「どのジャンル」のことを指していたて、それについても具体性は増しているんだが、まったく別の切り口で「書けること」「書けないこと」あるのだということにも気づいてきた。(あとで細かく触れるが「書けるスタイル」のようなもの)
まず「どのジャンル」という話については以下の記事のなかでこれまでよりさらに踏み込んでかなり明確になった。
これ以前にこの記事のもととなった目次記事をつくったことで自分のnote全体を俯瞰できたことがすごくよかったというわけだが(ちなみにこれは連続更新がネタ切れでただのリンク集で更新数を稼ごうという打算的な目的でつくったのだが、結果としてすごく意味のあることとなった)、じつはこの目次の効果はこれだけにとどまらなかった。というのが2つめの話。
この目次をつくったとき、わたしは過去に書いた一つ一つの記事について、書いたときのことを「これすごい適当に書いたな・・・」「このときすごい長文をなにも考えずすごい勢いで書き上げたな」とか思い出しながら整理した。それによって、ジャンルではなく「どう切り取ってどんなふうに書くか?」というスタイルみたいなことについて、自分が上手に(またはあまり考え込まずに)できることと、まったくうまくできないことがあると気づいたのだ。
それって上記リンク記事のなかでも少し触れている「自分なりに掘っていく」ということなんだが、例えば 展覧会のレポだったら、もうほとんどその展覧会や作品の感想とか深掘りの次元ではなくて「それとリンクした自分に起きたストーリーを軸にして書く」に近いとだんだん確信してきている。それが合ってるか合ってないかということは関係なくて、そういう文章しか書けないのかもしれないということ。
たとえば先日でいうところのこの展覧会「ノスタルジア」のレビュー。
レビューが苦手で展覧会のレビューやレポをあまり書いてこなかったわたしがほぼ初めて単独の展覧会について1つの記事で書いた記事だったんだが、レビューやレポの定義を
どんな展覧会で、どんな作品があって、どんな感想を持ったか、どんな人におすすめか、というようなことを網羅的に情報としてまとめたもの
とするなら、このわたしの記事はほぼ該当しない。が、これを読んでくださったどなたかが「行ってみようかな」と思ったり、行った方が「わかる!」と共感してくださったりする可能性はゼロではないから、そういう意味では無駄な記事とは言い切れない。
それがどんなスタイルかというと、説明が難しいが、ものすごく小さな点を大きくして書く。ということかもしれない。
その代わりその1点(または数点)以外はビックリするぐらい小さく書く。そういうある意味「ムラのある文章」がわたしの文章の特徴なんじゃないかと。典型的なレビュー記事のように、まんべんなく、網羅性のある記事というのが苦手なかわりに、そういった点を大きく広げる作業はけっこう得意なのだ。それが世の中のどれだけの人に響くものかは分からないけれど。
以前のわたしは、そういうものをどんなふうに書けば文章として成立感があるのかわからなくて、感情を表現する文章は「話し言葉」で独り言スタイルでないと書けなかったのだが、最近はちょっとわかってきた気がしてる。(ぜったい塩谷舞さんのおかげ)
ということで、上記リンク記事に書いたように記事を増やしたいジャンルは「エッセイ」「アート関連のレビュー」「音楽」だったんだが、同時に「もっと人間が透けて見えたい」を実現するために、わたしなりのスタイルでどんどん書いていく。それがどんなジャンルでも、一つのジャンルに収まらないジャンルをまたいだ話でも。
そんなことがいちばん最近みえてきたようなこと。
毎回「ヒット」「ホームラン」は無理だけど
最初からそうなんだが、毎回いい記事が書けるわけない。とくに連続更新をしていると一定数の記事は苦し紛れになったり、こんなん書く意味あるのかと思えるような記事になったりする。
以前のわたしはそれをいちいち消したりしていて、小心者なのでいまでもそういうときは「嫌になったらあとで消そう」というつもりでアップしていたりはするが、今回それでもアップできるようになったのはまず「そんなに誰も気にしてない」と思えるようになったから。さらにそうやってアップしていくうちに毎回「ヒット」「ホームラン」は出せなくてもいいし「むしろそうじゃなくていい」ぐらいに思えてきている。消したい気持ちよりも、それを一つのプロセスとしてとらえ「こういうゴミみたいな記事が成長過程にはあるものだ」という受け止め方ができはじめている。
なぜなら自分が成長したり自分にできることを研ぎ澄ませることができてきている実感があるだけでなく、いわゆる「ダメな自分」を受け入れられていることこそが継続できている何よりの理由でもあると感じているからだ。
つづけるということは、ムラがあることを許すことでもあるのかもしれない。
まとめ
さて49記事目(ほぼ50記事)は、またあらたな気づきがあり、今後の展望につながるいい振り返りとなった。
今回の気づきでもっとも大きかったのは「書くスタイル」の話だが、今はまだこのスタイルでの執筆がそんなにたくさんできない。(できるようになるのかは謎)。というのは「エッセイ」的なものはふと思いついたときに思考ノートに書き出すことで未来の1トピックに直接つながるのだが、レビュー的なものをわたしなりのスタイルで書こうと思うと、まずその切り口や広げる点をどこにするか?が決まらないといけない。
もちろんそれが決まっていることもあるが、基本は決まっていなくて「どう書こうかな〜」という漠然とした切り口探しから始まるわけで、それがなかなか見つからないこともある。だが、それもまたよし。ちょっとした雑記なんかもはさみつつ、また行ったりきたり、ジグザグしながら上にのぼっていけたらいい。