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2020年1月下旬から2022年の1月現在までにおける所謂パンデミック対応を見るにつけ、凡そ様々な価値観に変化を与える契機になったのは間違いないと思います。

・「成熟した個人主義」への幻想
・政治イデオロギー幻想
・ニュースソース=マスコミとする疑問
・農耕民族の遺伝子に気付くその是非

革命の諸国と呼ばれるヨーロッパへのある種の憧憬みたいなものが私の中には幼い頃からあったような気がします。
自分で考えて決断する実行力、そうした価値観を共有できる民族性質についての評価なのでしょう。ただ冷静に整理すれば、アングロサクソンの光と影も歴史の検証として浮上します。語弊があるかもしれませんが、強度の‘思い込み’の凄まじさは日本人の比ではないという事です。
つまり千年以上隣り合わせの戦争の歴史を背景にヨーロッパは、現在にEU連邦という最大公約数的価値観を民族の経験則から生み出したことになります。

アジアの中でも最東端に位置し、島国という特徴に加え、皇室を頂く或る形の民主主義国家の様相を呈する日本との比較において、一般市民が捉える国家概念の有り様が大きく異なるのは至極当然です。

私はこの2年間を経た事による私自身の思考の理想と現実のリストラクチャーを余儀無くさせられた実感があります。

人間は困難に直面したときに本性が露になると云われます。自己保存を求めるスピードの差異が人によって違うことを意味します。
結果が直ぐに欲しいか否か、そこは大きい要素ではないでしょうか。

ふと思い出すのは、幼い時分の兄弟喧嘩、兄弟間におけるやり取りです。
「オマエのせいでオレが怒られる」
自己保存の原点はこんなところに潜んでいます。‘自分は悪くない、不条理は許せない。オレの為にオマエが間違えるな、ちゃんとしろ’この論理を建前上‘利他’と定義付けて、公的モラルに昇華させているのが、私は現在の常識に刷り変わっていると感覚的に捉えています。

今回の世情を踏まえ、私がヨーロッパの理想にみたモラルの実態が強度な自己保存に過ぎなかったのかもしれないと思わずにはおれない事象を見るにつけ、確かにその反体制的な異議申し立て、そうした動きも一方では存在する点も理解するにせよ、政治主張であるヨーロッパリベラリズムと云われる社会民主主義、さらに自由主義概念はまるで役に立たないことにも気づかされました。

予々、私が示唆する中道主義、中庸を目指す為には情報を解析し、自分で判断する直感を信じること、養うことしか今後生きる道はないと、実は一番難解な方法論ですが、これも久しく情報社会をどの様に生きるかみたいなテーマは言われ続けてきた訳で、まさに今胸ぐらを掴まれている状態まで追い込まれた上での選択を余儀なくされていると私には感じてやみません。
一番難解なのは、ポピュリズムとの対峙であり、くぐり抜ける力量が問われるからでしょう。それよりも大人しくした方がと…この考えることを放棄する選択だけはしたくないと思いつつも、例えばツイッターにみる分断された思考の違いは埋めようがないのも事実として、この時代、今まで信じてきたものを捨て去らなければならない揺さぶりがあるのは確かです。

平穏無事に生きたいと願いつつも、どのように生きるか、一日一生はそれぞれに委ねられています。

Amazon Musicでジョン・コルトレーンのライブベストを聴きながら…自分のバイオリズムに慌ただしい時ほど、不思議とジャズを聴きたくなる習性があるのです。
今日も新しい一日を、一日はいつも新しいと。

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