#247【劇評・絶賛】劇団四季『ゴースト&レディ』3回観てきたレポ(2/4)
今日もお読みくださってありがとうございます!
最近調子が悪かったプリンタが壊れて、涙ちょちょぎれている(昭和)なうです。まあでも10年くらい使ってるから仕方ないか……。
劇団四季『ゴースト&レディ』を3回見ての感想2/4です!
内容に関するあれこれ・後半(2幕目分)
様々な女性の人生を描く「ゴースト&レディ」
エイミー 志高き、もろき凡人
この作品は、フローのような特別な人間ばかりを描いているわけではありません。
フローにあこがれて自ら志願してクリミアへ来た若き女性、エイミー。
彼女は厳しい現実を前に立ちすくみ、フローと自分との埋められない差に打ちひしがれる姿が描かれます。
またそれに気が付かないで「一番つらいのは患者さんなんだから笑顔を忘れずに!」なんて完璧なアドバイスをするフロー……。『虎に翼』で娘・優未に「ちゃんと復習をしたら次は100点取れるわよ」なんて言っちゃう勘違い寅子を思い出します。
やがて彼女は、結婚を決めて祖国へ帰っていきます。
エイミーの結婚相手がフローの元婚約者だし、それが分かったあと、さすがのフローも落ち込むから、なんかちょっとアレな感じの流れになっちゃっているけど、そうだよね、みんながみんな、フローみたいな強者じゃないし、「自分たちにできることをやっていく」というエイミーとアレックスの自然な言葉に嘘はない。
やってみたら思ったより向いてなかったということは、めちゃくちゃある。
くらたも、クレーム対応も弊社の係長業務も、思ったより向いてなかった。チームリーダー全般が向いてないとは思わないけど、くらたの取りうるリーダーシップは、弊社とは食い合わせが悪かった。
婚約者でなく憑霊に救われるヒロイン
とはいえフローだって、何の葛藤もない無限頑張りマシーンなわけではない。
原作フローは、原作者の藤田和日郎先生はエキセントリックなヒロインとして造形したと明言されていますが、劇団四季版フローはそこまでエキセントリックではなく、どちらかと言えば、真面目で思いつめやすく葛藤が多い、でもグレイとの出会いで、強かなチャーミングさを手に入れていく、という王道ヒロイン。
がんばってもがんばっても敵は多く(軍医)、道は阻まれる、厳しい環境にどんどん仲間が減ってゆく。さらに、若い後輩(エイミー)も自分から離れてゆく(外からは完璧に見える自分がエイミーを追い詰めていたことには気が付かないのですが)。
元婚約者との結婚を望まなかったのはフロー自身とはいえ、エイミーが元婚約者と結婚することも、何も思うところがない、というわけではないでしょう(でもその感情ってこの物語全体のつくりから考えたら、ちょっと生生しすぎるような気もする)。
そのフローの孤独を救ったのは、「フローが絶望したら殺す」という約束でフローに"取り憑いている"シアターゴーストのグレイでした。
フローから感謝を告げられたグレイは、「俺に感謝してるだと?」と戸惑います。
もし実際に幽霊に取り憑かれたら怖くて仕方ないですが、実はこの仕組み、二重の意味で前に進む勇気をくれているのだなあと、3回目にして気が付きました。
一つ目は単純に、取り憑いているゴーストは常に一緒にいるから、グレイがいる間はフローは孤独から救われる。
二つ目は、「絶望したら殺す」という約束。いうなればゲームのリセットボタンみたいな話です。絶望したのちに絶望とともにまた歩き出すのは辛いものですが、それをしなくていい、という約束でもあります。
こうして二人の絆は不思議な形で深まっていくのでした。
フローとグレイのそれぞれの心情を歌い、美しくハモって盛り上がる『不思議な絆』は、1幕の終わりのナンバーにふさわしく、めちゃくちゃよい。
フローのパートは、劇団四季『美女と野獣』の『チェンジ・イン・ミー』みも少しあって、大人の女性が人生を肯定する内容で、萌え。
ここでいう「あなた」は元婚約者のアレックスのこと。
かつては好きだったアレックスではなく、グレイこそが自分に必要だという気付きを歌い上げています。
よかったね。
もうひとりのヒロイン・男装の麗人デオン
本作を語るうえで欠かせないのが、二人いるラスボスのひとり、フローの命を狙うゴースト・デオン。
もう一人のラスボスはただの権力狂いで、キャラクターとしてはあまり語るべきところがないので、実質重要な敵役はこの人のみと言ってもいいでしょう。
かつて生きていたころ男性決闘士としてグレイを殺したこのデオン、実は女性であった、というのは原作でも描かれていました。
劇団四季版ではさらに踏み込んで、「生前、父の命によって男の決闘士として生きたが、女であることが露見してみじめな最期を迎えた。女であることは呪いだ」と語る場面が作られ、女性にかけられた呪いを告発する役割が強調されていました。
この部分って、くらたは劇団四季版のデオン様のほうが感情移入がしやすかったけれども(岡村美南様も宮田愛様も素晴らしかった!)、原作者の藤田先生はどうお感じになったかな、とは思いました。
原作デオンの造形はエキセントリックでサイコパスみにあふれており、女性的な部分はかなり抑えられた演出でした(それにしたって、男装の麗人が男性作家の作品で出てくることにくらたはけっこう驚きを感じましたが……)。
ともあれ、原作では「女に生まれた悲哀」は劇団四季版ほどには表出しておらず、敢えてそうしているのだろうと思っていたので、劇団四季版の”悪役にあるまじきわかりやすさ”は、意外な感じでした。
ていうか今気が付いたけど、女であることを呪いと感じて女をやめる、って『虎に翼』のよねさんじゃないの……!
そういえば、昨日書いたジャン・アヌイ『ひばり』のジャンヌ・ダルクだって、裁判にかけられた中には男装の咎もありました。
多くの物語の中に似たモチーフ・テーマが頻出すると言うことは、そのモチーフ・テーマがそれだけ人の心を動かすということにほかなりません。
なんと……デオンもフローと同じく、女ながらに、自分の信じた道をゆく人間、本作のもう一人のヒロインだったのか……。
これ書いていて、初めて気が付いた。
「見る」ことの意味
「死に直す」という動機
そうそう、デオンがフローを殺そうとするのは、「死に直すため」だというのも、3回目にして改めてよくわかりました。
死に直す、って発想、ふつうに生きていたらならないから、こういう心情を考え出す人ってほんとうにすごいと思う。
劇団四季版で明確化されたこの世界のルールは、「誰にも看取られずに孤独に死んだ人間はゴーストになること」と、「ゴーストは、生きた人間を殺すか、別のゴーストに心臓を剣で貫かれると消えること」。
デオンは「女であったがために納得のいかない最期を迎えてゴーストになり、自分にふさわしい最期を探してきた。『クリミアの天使』を殺すことは自分の最期にふさわしい」と感じてフローを突け狙うのです。
「見る」ことの意味
「見る」ということのいろいろな側面については、ずいぶん前にひとつ記事を書きましたが、今日はそれとはまた別の話を。
↓ 以前に書いたのはこの記事。「見る」ことの査定的な面について書いた ↓
上記のとおり、劇団四季版『ゴースト&レディ』では、「誰にも看取られずに孤独に死んだ人間はゴーストになる」というルールがありました。
フローがランプをもって夜も病院内を見回るのは、「誰も、最期の瞬間を一人にしない」という決意のためでした。
死んだり忘れ去られたりすることが、どれほど人間にとって恐ろしいことかは、多くの物語※で繰り返し語られていることからも、よくわかります。
※『インサイドヘッド』(とくにビンボン)、『リメンバーミー』、『屋根裏のラジャー』など(ちょっと思いつくのが最近の物語ばっかりだが)
くらたが私淑する内田樹さんは、「人間にとって自分がいつか死ぬ事の耐えがたさを緩和する物語と、自分が死んだのちに回想してくれるだろう他者の存在は不可欠である」と書いています。
(下記引用内、太字はくらた)
現実のナイチンゲールも、夜はランプをもって患者を見舞い、亡くなった兵士の家族あてに手紙を書いていたそうです。
また、死を前にしなくても、自分の辛いも苦しいも「見て」いてくれる存在がいることが、どれだけ救いになることか。休職してnote.に書き始めてからのくらたの実感はここに書いてきた通りです。
本作でのフローも、人知れず葛藤する自分のすべてを、ゴーストという死を超越した存在が「見て」いてくれることに励まされて前に進んでいきます。
現実的なラスト 絶望しても人間は生きていかなければならない
度重なる攻防戦の後、クライマックスでグレイはデオンと刺し違えて消えてしまいます。
グレイが消えてしまい、真の孤独と絶望に突き落とされるフロー。
少し前まで敵役の軍医に向かって、「私が死んでも誰かが歩くでしょうこの道を さあ、(私を)撃てばいい」と啖呵を切ってさえいたフローが、誰もいない吹雪に向かって叫びます。
ここの叫び声が本当に悲痛で、ここは初回から必ず号泣してしまいます。
あれだけ歌った後にこれだけ叫べるってどういうノドなのでしょうか……。
真瀬フローの叫びも聞きたい。
しかし、一番の絶望のときに、殺してくれるはずのグレイがいない。
今いてくれなくちゃダメじゃない。
一番の絶望をもたらしたのがグレイの不在だなんて皮肉。
これはとても現実的なラストだと思いました。
結局、一番の絶望から救ってくれる存在などなく、絶望の後にも人生が続くのです。
絶望しても、人間は生きていかなければならない。
藤田先生は、劇団四季は、そういう姿を見せてくれている。
阿部詩さんのパリ五輪での敗退の号泣シーンでも、同じことを感じました。
「信じた道を歩め」という人生賛歌
「信じる」
この作品では、「信じる」という言葉が印象的に使われていました。
それは、天啓を受けたフローのような神に対する信仰心という文脈ではなく、人が人を信じることにおいて、でした。
グレイは生まれてから死ぬまで裏切られ続けた人生でしたが、フローに出会って人を信じることができるようになりました。
フローが自分の信じた道を進んでいく姿を見て、また、フローがグレイの助けを必要としている姿を見て。
自分が信じたいもの(フロー)を信じて、デオンを倒したグレイの言葉は、
でした。
デオンも、「悪くない」と思える"死に直し"ができてよかった。
また、フローが天寿を全うしたあと、身体を抜けてグレイに再会したシーンでは、「信じる」を信仰心とはっきりと切り分けて書いています。
ここで思い出したのは、1月に観た劇団四季『ひばり』(ジャン・アヌイ作)の終盤、教会に従ってそれまでの行動を改める「異端放棄」をしたジャンヌが、それを取り消して火刑を受け入れる際に神に向かって叫ぶセリフです。
1月に聞いた時から、その凄烈さが印象に残っていました。
ジャンヌが、自分の身体が救われることよりも、それまでとった自分の行動が御心にかなったものだと信じぬくことを優先した瞬間の言葉。
今これを書いていて、先に引用したグレイの台詞、
は、このジャンヌに対するアンサー、劇団四季70年の歴史に対する、現時点でのアンサーなのではないか、という気がしてきました。
ジャンヌに対して「御心がなんだ」とストレートには言えそうにもないが、「自分の信じた道を歩め」というメッセージは、『虎に翼』第113回でよねさんが語った「どの地獄で何と戦いたいかは本人が決めること」とも通底する、人生の苦しみでもあり、人生賛歌でもあります。
初めて気が付いた、美しいだけでないラストシーンの意味
さてラスト、客席天井まで広がる、無数の小さなランプの暖かい光。
ナイチンゲールが夜に病室を見回る姿を表現した「ランプを持った貴婦人」というイメージから来ているのだろう、くらいにしか思っていなかったのですが(おバカ)……
今回急に、「ランプの数だけ後進の看護師が育った」の隠喩だと、初めて気づいたのです!!!
ネットを調べたらそういう読み解きはごまんとありました。
なぜ今まで気がつかなかったのか。
とにかくもうそう気が付いたらその景色の美しさに改めて号泣。
一つひとつは小さくとも、それぞれ美しく揺らめいている。
母の闘病はもちろん、コロナ禍における医療従事者の尽力も思い起こされ、美しい無数の灯りはまさしく、ナイチンゲールから発展した医療従事者一人ひとりの姿でありました。
蛇足
グレイとさだまさしの共通点?!
さて、超蛇足ですが、これも書いておきたい!
最終幕では、フローが亡くなって身体から抜け出し、グレイと再会します。
そのあとは、いかにも男性作家らしいロマンにあふれたラストが用意されていて、そのラストに異論はないのですが(そも異論をさしはさむ立場にない)。
そのシーンのグレイのセリフに
があります。
ん?
これ、昨日(3回目を観に行った前日)の夜の昭和歌謡ショーで聞いたぞ?
と思ったら、さだまさしさんの『関白宣言』3番でした。
『関白宣言』の最後ってこれ2回も繰り返すんですよ。……ゲホゲホゴホンゴホン、なんというかこういう言葉には男性のロマンチシズムを感じるのですが、ほんとのところはどうなのでしょう。
お前が唯一の女とか言っとけばなんでも許されると思うな
「大学時代の同級生と飲みに行って、みんなは大学時代のように連れだって風俗に行ったけど、俺はくらちゃんが大好きだから行かなかったよ!褒めて!」と言ってきた20代後半のころの元恋人を思い出しました。
その話のどこに褒めどころがあるんだよ(怒)!
おおおわああああああ!!!!
内容について書きたかったことぜんぶ書いたぁああああああ!!!!
終わらないかと思った!!
今日だけで7000字近いとか頭おかしい!!
ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございます!
明日に続きます!
明日は、舞台美術や衣装に関する話の予定です。
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