#233【虎に翼語り】第1週(5)寅子、母はるに勝利
今日もお読みくださってありがとうございます!
今日のタイトル画像も、明治大学博物館で開催中の「虎に翼展」で展示されていた伊藤沙莉さん(たぶん直筆)の寅子イラスト。
第1週の最後、第5回について書きます。
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第1週 The 1st stage "vs Mother Haru"
第5回 共通の敵・桂場のおかげで、母はるが味方につく
先攻・母はるの攻撃「呪いの言葉」
第5話では、母はるも、女学校に行きたくても行けなかった才女であったとわかります。
おーう、ビッシビシ刺さるぜ、言葉の暴力が……。
でも今でもこういう「呪いの言説」ありますよね。
善意のふり……というか本当に善意で、自分の価値観押し付けてくるやつ。
くらたも何度も出会ったことある、この手の話。
それは何も明らかな敵方から、あからさまな形で出てくるわけじゃないのがまた厄介なところで。
味方だと思っていた人からある日突然、思いもよらない形で突き刺されたりするのです。
自分の親とか、同僚とか、友達の母親とか。
先輩から唐突に「子どもはかわいいよ」と言われたことは以前もどこかで書きました。
またそれとは別に、友達の母親が、友達が子どもを産んだときに
と言ってきたことがありました。
悪意がないのはわかっている。
この言葉の攻撃性を正しく理解したうえで言っているとしたら悪意がなければいけない。そして悪意を持ってこれを言うには相当のメリットがないとだけど、友達の母にないもん、そんなメリット。
わたしとお母様との関係は決して悪くなかったし。
でも、先輩の件と同じく、悪意がなきゃいいってもんじゃないんですよ。
これ言われてめちゃくちゃモヤりました。
うーん、言われた当時は思うだけでも申し訳ないと思ってたけど、10年経った今思い返しても思うことはひとつ。
「うるせえ黙れ」☆
友達に子どもが生まれて話題の中心が子どもになったとして、それが直ちに「話が合わない」ということにはならない。
わたしたちはそんなに狭量ではない。
確かに子育ての具体的な苦労について「わかるー」と言えるような話はわたしにはできない。
でもそもそも友達と一緒に同じ立場で過ごした時間なんてわずか数年間だし、就職して教師とWeb屋で互いの仕事なんか1ミリもわかんなかったけど話してたよ。
構造は変わんないだろ。
……と思うのは、わたしが子どもがいないほうだからなのかなあ。
子どもを産んだ友達は何人もいるしそれぞれのお母さんにご拝顔してきたけど、ほかのお母さんにそんなこと言われたことない。
つまりあんまり言う発想にならないとか、なったとしても言うべき言葉じゃない、ということだよね?
そもそもわたしと友達は、互いの母親のいないところで友情をはぐくんできたのであり、わたしと友達のこれからの関係性を部外者が勝手に呪ってくれんなよ。
だから、「うるせえ黙れ⭐︎」
この件をわたしが結構怒ってたことを、改めて実感しました。
十年経ってもこんなところに書いちゃうくらいには怒ってたみたいです。
『虎に翼』がすごいと思うのは、こういうところ。
終戦後に地雷を掘り起こして爆破させて処理する機械のように、自分がいつか感じたことのあるモヤモヤを、思い出させて改めて怒らせてそして癒してくれます。
って書いていたら、「不発弾処理」に例えているかたがいらっしゃって、あまりの同期にふるえました。
幸せになるためにバカの振りをする?
さて、この一連の対決の最後で、はるさんの人生の苦しみも表現されます。
これなー。
ジェーンスーさんと中野信子さんの対談本でも語られていたけれど、今でもある……ぜんぜんあることです。
第2話の「ひけらかすな」はここから来ていたのかあ。
「寅子に幸せになってほしいからひけらかすな」だったんですね。
平等を阻んできたのは女性でもあった。
(もちろん、旧来の価値観を学習させた社会構造こそが根源ですが)
友達に、学年一成績が良いのに、家族や周囲に慮って小さいころから道化のふりをしてきた人がいました。
でも彼女は自分のことを「戦わず、人の顔色を窺って嘘をついてきた人間だ」と認識していました。周囲と融和するために道化のふりをするのが彼女の「戦い方」だったのに、それを「嘘をついた」と悔やんでいる。
それは必ずしも男性によって強いられたものではなかったけれど、彼女がもし男性に生まれていればそうはならなかったとも思うのです。
実際、ウチでも「ひけらかすな」と叱るのは父ではなく母でした。まあわたしが長じて知ったような口を叩くようになったら、父も不快感を示していましたが(そこにはもちろん若き日のわたしの鼻持ちならない口の利き方にも問題はありました)。
いっぽうで、職場のサザエ先輩は、博識で、抽象度の高い話題も扱えると同時に、屈託なく「わたし知ってるー!」と言える方でした。
すぐに知らないふりをして「そうなんですかぁ、知らなった、勉強になります!」とか言って、世渡り上手になった気でいたくらたには、彼女はとても眩しい存在でした。
寅子の反撃に母はるの「呪詛返し」
でも、母はるの「頭の悪い女のふりをしてできるだけ条件のいい男性と結婚することだけが頭のいい女の幸せだ」という言い分に対して、寅子ははっきりと反対の意を示します。
と答えます。
お母さんのような人生を歩みたいとは自分には思えない、と。
まあ、言い方はもっと他に適切なものがあったとは思うけれども、これに対するはるの反応は
でした。
これに驚いた寅子は、「お母さん違うんだって!!!」と言いますが後の祭り。母はるは、よよとその場から立ち去ります。
これで寅子は「正真正銘の親不孝者」。加害者決定です。
さすが母はる。反撃されてもタダでは済まさず、おっそろしー呪詛返しを繰り出してきました。
「あなた、私のことそんな風に見てたの?!」って、言語化するとしたらどうなるかなあ……。
「あなた、私のこと、『地獄みたいな人生なのに嬉々として歩んでる』とさげすんで見てたの?!」
ぐらいのニュアンスでしょうか。
しかし、ついさっき、先に「嫁の貰い手がなかったらみじめだ」と勝手に未婚の人生をみじめ呼ばわりしたのはお前である。
その加害性に微塵も自覚なく被害者ぶるの、悪質~……。
何度も書いているので読み飽きた方もいらっしゃると思いますが、似たようなことは身に覚えがありすぎでして。
(くらたはギフテッドの定義には入らない程度の中途半端ものである、というのは前提として。)
ギフテッド当事者が生きづらさを語るときに、非当事者から言われがちな言葉に「IQが高いのを自慢している」(『ギフテッドの光と影』朝日新聞出版)があります。
「IQが低い自分をバカにしているんだろ」も「あなた、私のことそんな風に見てたの?!」も同じですね。
これを言われて黙らされてしまうと、当事者の生きづらさは解決どころか言語化・表明さえできない。
このすれ違いは、「当事者が自分の話をしているんであって、非当事者の話はしていないよ」という前提を、非当事者側が理解していないことで起こります。
同じように、今寅子は寅子自身の人生の話をしているんであって、母はるの人生の話はしていない。
それを、はるが理解していないから、このすれ違いは起こっているのです。
寅子がここで言いたいのは、丁寧に言語化するなら、
という話なのです。
母親が「娘に母親自身の人生を理想と思って追いかけてほしい」と、思うのは自由だけど、それが当然のように押し付けるのはやりすぎというか傲慢ですよね。
自分をひけらかしていて傲慢なのは母はるのほうです。たまたまこの時代の女性のマジョリティだったに過ぎない。
うまく言えないけど、コンテンツ(はるさんが持つ旧式価値観それ自体)については、この後、共通の敵・桂場との遭遇によって乗り越えられていくのですが、ガワ(はるさんの実践するコミュニケーション形式、価値観の押し付け)については明確な回答は示されていませんでした。
「女は感情的」問題について書き尽くす!
第5話終盤、甘味処「竹むら」で、桂場と母はるの奇跡のマッチが実現します。
寅子を「君は優秀なんだろ」と言いながらも「甘やかされて育ったお嬢さん」と侮蔑し、「女に法律の世界は時期尚早」と言い放った桂場。
そこへ、横から入ってきたはるが「おだまんなさい!」とピシャリ。
これもねー。
現実でもフィクションでもよく見る言説ですよね。
ここで桂場の言う「感情的」は、はるが怒りをあらわにしていることを指していると思われますが、「トーンポリシング」というやつで、今日的にはアウトとされているものです。
そもそも構造上弱い立場に置かれた者から強者への要請は外形上「怒り」として表出しなければ聞いてもらえません。
フェミニズムだけでなく、民衆運動が怒りや暴力を表出させて世の中を変えてきたことは歴史上の事実です。強者が弱者を「感情的だ」と断じることの不当性について、改めて考えるべきでしょう。
「感情的」について語るべき側面はもう一つあります。
岡田斗司夫さんがYoutubeで語っていた「感情の壁」。
この動画では男性女性関係なく「論理でなく感情で物事を決めること」について語られています。
上記のトーンポリシングとはまた異なる「感情的」の話です。
こっちの意味でも「女は感情的」の用例がいくつかあります。
先日観に行った劇団四季『ゴースト&レディ』では、クリミアへ渡ったナイチンゲールたち看護婦の一行に軍人が「女は感情で動くから軍隊には邪魔だ、帰れ」と言います。
え、でも……。
野戦病院が衛生管理も栄養管理もできておらず死屍累々の惨憺たる状況だったのに、物資を持って助けに来た医療従事者を「女だから」という理由で追い返すことのほうが、かなり感情的じゃない??
また、なんども過去の恋愛の話をして申し訳ないが、元恋人には、
「感情的なくらちゃんに、理性的な俺。いいカップルだ」
と何回もウザ絡みされていました。
え、でも……。
毎日何時間も電話をかけてくるのも、何かというと不機嫌になり喧嘩をしかけてくるのも彼だったし、おばあさまが亡くなったとき悲しみのあまり連日飲み歩いて「飲み過ぎて血を吐いた」と電話かけてきたり、街中だというのに夜空に向かって「おばあちゃーん!迎えに来てー!」って叫んでたけど……どこが理性的なのかな?
ことほどさように、「女は感情的」問題って、どこまで科学的な話なのか、以前から気になっていたんですよねー。
ここで手元の『女に生まれてモヤってる!』(中野信子・ジェーンスー)を開いてみると……
分泌物の変化に伴う心理状態の変化で一時期気分が不安定なことはあっても、女性の性質として年がら年中常に感情的かというとそういう科学的根拠はないようです。
これらのことから、男女問わず、論理で判断する人と、感情で判断する人がいる、そのことの適否はケースバイケース、ということなのではないかと、愚考するのであります。はい。
勝者寅子!共通の敵・男性(桂場)を前に、はるが味方に付く
結局この行きがかり上、はるは寅子に、振袖ではなく六法全書を買い与えます。
はるにしても、桂場に「無責任に娘の口をふさごうとしないで頂戴」と啖呵を切った以上、自分も「娘の口をふさごうとしない」道を選択するしかありません。
ここでかの名場面が爆誕。
幸せになれるかどうかはおくとして、少しでも若いうちにお見合いしたほうが有利なのは昔も今も変わっていないなぁ、なんて思いつつも、この場面の熱さったらない!
ッカァァ!
最終回ではるさん(幽霊)が再登場し、寅子に地獄の道はどう、と尋ねるシーン。
あれを思い出します。
ああああ、あのシーン寅子の笑顔からの涙にばかり気を取られていたが、はるの「そう」はこことリンクしているのかあ。
9月に放映された『林修の初耳学』米津玄師さんゲスト会では、虎に翼主題歌『さよーならまたいつか!』と、米津さん自身「本歌取り」したと語る種田山頭火の自由律俳句との間に、「双交通」が成立していると、林先生が指摘されていました。
双交通とは、篠原資明さんの『言の葉の交通論』にある言葉です。
本の冒頭を引用します。
おおおおお、さすが林先生、難しいものを引いてくる。
何度も言いますがくらたはこういう圧倒的な知性にぶん殴られるのが好きですね。
途中から最終回まで観た後に頭に戻ってくる、わたしの『虎に翼』体験自体が、まさにこの「双交通」を体験し続けることに他ならない。
そう実感した第一週視聴でした!
長らくお付き合いありがとうございました!!
第2週は……やるかやらないかわかりません!