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#286【くらたの本棚】表現人に読んでほしいアガサ・クリスティ『最後の降霊会』

今日もお読みくださってありがとうございます!
昨日の記事、レーティング「18歳以上」に判定されてしまったんですね。
びっくり。
どう考えても星野源の原文のせいだろ。
まあ星野源の原文は子どもに読ませたい内容ではないし(大人のわたしも読みたくないけど)、わたし自身もゾーニング大事だって文中に書いてますしね。
レーティングでいえば、昨日の3冊の中では『みいちゃんと山田さん』は比較的読みやすいと思います。あとの2冊は露骨な性描写重め。…って昨日の記事にも書き足しとこう。

さて、気を取り直して、今日はアガサ・クリスティ作品について書きます!

いつものとおりネタバレありです。
目次からネタバレするかもしれません。
ミステリがネタバレしては面白くないので、これから読む予定のある方はどうぞお先に作品をお読みください。30ページくらいのごくごく短編です。


アガサ・クリスティの短編『最後の降霊会』

概要

今日は、ミステリの女王アガサ・クリスティの短編『最後の降霊会』について書きます。

短編集『死の猟犬』所収。

ウィキペディアのあらすじがとんでもなく端的でわかりやすくて良くできてる……!すごい。
↓ こちら ↓

最後の降霊会(さいごのこうれいかい、The Last Séance)
霊媒として有名な婚約者のシモーヌに会いにいったラウール。
シモーヌはこれ以上霊媒となるのを嫌がったが、ラウールはこれで最後とするから今日の降霊会はやってほしいと頼む。
もうすぐその依頼人がやって来る時間である。
依頼人は幼い子供を失った母親だった。

死の猟犬 - Wikipedia

霊媒師シモーヌの最後の降霊会

降霊会、おそろしげな響きですね。
その名のとおり、霊媒師がその身に死んだ者の霊を降ろす儀式です。

この物語の大半、その降霊会が霊媒師シモーヌにとって負担になっていることが盛んに語られます。

「お具合がですって!」と彼女(エリーズ。シモーヌに仕える老婆)は続ける。「いいわけがないでしょう……おかわいそうに。降霊術、降霊術、いつもいつも降霊術ばかり! いいわけがありませんよ……自然じゃないし、神さまのおぼしめしにかないませんからね。わたしに言わせりゃ、ざっくばらんなところ、あれは悪魔との取引きですよ」

「最後の降霊会」『死の猟犬』372ページから引用


降霊術はとても大変なようです。
また、霊が降りる間シモーヌには意識がないことや、霊が離れた後はとても疲れていることが強調されます。

彼女(シモーヌ)は目をあけると、じっと前を見つめた。
「真っ暗な小部屋に坐って待っていると、闇がこわいの、ラウール……だってそれはがらんとした何もない暗闇なんですもの。それをわざわざ自分からその中に呑みこまれるんですからね。そうなったら、あとはなんにもわからないし、なんにも感じないけど、しまいにゆっくりと、苦しい回復がきて、眠りからさめるんだけど、それがとっても疲れてね……おそろしく疲れてしまうの」
「わかる……わかるよ」とラウールは呟いた。
「とっても疲れちゃって……」とシモーヌはもういちど呟くように言った。

「最後の降霊会」『死の猟犬』380ページから引用

霊媒師視点から見た降霊術のようすを描けるの、すごいなぁ。

そうしてシモーヌは、霊を降ろしている間の自分がどのようなようすかラウールに尋ねます。

「はじめの一、二度は、子供の姿もぼんやりした靄みたいにしか見えなかったんだけどね、この前の降霊会のときは……」(中略)
「シモーヌ、そこに立った子供は、肉体も血もあるほんとに生きた子供だったよ。ぼくは触ってもみたんだからね……だけど触るときみにはほんとに苦痛らしかったので、エクス夫人(依頼人。子どもを失った母親)には触らせなかった。彼女の自制心が失われて、きみの身に何か害があっちゃいけないって心配があったんでね」

「最後の降霊会」『死の猟犬』385ページから引用

なんと、イタコや狐憑きなど、霊媒師と聞いて想像する姿とは異なり、降ろした霊は実体を持ち、触れることができるようです。
これがこの話の独特なところだなぁと思う。
けれど、触れることは霊媒師シモーヌの苦痛につながることがここで示唆されます。

依頼人エクス夫人の暴挙

そうこうする間に、依頼人のエクス夫人が訪ねてきて降霊会が始まります。
この降霊術の描写も、緊張感があります。

何分かすぎた。カーテンの奥からシモーヌの息づかいいの音が、だんだんはげしく、鼾をかくような音になった。やがてそれが次第に低くなって消えてしまうと、そのあとにひとしきり呻き声が続いた。そしてまたしばらくのあいだ沈黙が流れたかと思うと、それがとつぜん鳴りだしたタンバリンの音で破られた。テーブルから角笛が取りあげられ、床に叩きつけられる。皮肉な笑い声が聞こえた。アルコーヴのカーテンがすこしばかり引きあげられたらしく、霊媒の姿がその隙間からわずかに見えた――顔をがっくりと胸におとしている。

「最後の降霊会」『死の猟犬』396ページから引用

この降霊術は成功し、シモーヌの口から流れ出した靄がしだいに形をなし、エクス夫人の目の前に亡くなったはずのアメリが現れます。

「わたしのかわいい子、あの子の体に触らなくちゃ」(中略)
彼女(エクス夫人)の差しのべた手がカーテンの隙間に立つ小さな姿に触れた。と、霊媒の口からゾッとするような呻き声がほとばしった。

「最後の降霊会」『死の猟犬』398ページから引用

降ろした霊の体に触れられた苦痛は、ゾッとするようなうめき声をあげるほどなのですね。おそろしい……。

しかし、我を忘れたエクス夫人は、アメリを抱き上げると家の外へ走り去っていきます。

後に残されたのは、「苦痛のどん底にあるような」悲鳴を上げ続ける霊媒シモーヌと、エクス夫人によって椅子に縛り付けられたラウール。

残されたシモーヌの姿は……

シモーヌの悲鳴が途切れたころ、ラウールはようやく紐をちぎり、老婆エリーズとともにシモーヌの元へ駆け込みます。

「シモーヌ!」とラウールは叫んだ。
二人は一緒に駈けよると、カーテンを引きあけた。
ラウールはうしろへよろめいた。
「たいへんだ! 赤い……まっ赤だ……」と彼は呟いた。
そばでエリーズのきびしい震え声がした……
「とうとうマダムは亡くなってしまった。もう終わりです。だけどムッシュー、何が起こったのか話してください。どうしてマダムはすっかり縮んでしまったんでしょう●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●?……なぜいつもの体の半分しかないんですか●●●●●●●●●●●●●●●●●●? ここでどんなことが起こったんです●●●●●●●●●●●●●●●●?」

「最後の降霊会」『死の猟犬』400ページから引用

わたしにとっての「言葉にして伝えること」のイメージ

短編集全体でなく、この短編についてだけ書くほどに面白いミステリなのか?と思った方、ごもっともです。
すみません、実は、ミステリとしての出来はよくわかりません。

でも、小学校の一時期アガサクリスティばかり好んで読んでいたわたしが、ほかの作品はあまり詳細を覚えていないのにこの作品は印象に残っていて、折に触れて思い起こされてくるのです。

それはなぜか。

わたしにとって、「自分の内面の取扱注意な部分について書くこと」ひいては「言葉にして伝えること」のイメージは、この作品の印象と重なるからだと思います。

書くこと、言語化して伝えることは疲れる

以前#6の記事でも書きましたが、『頭のいい人が話す前に考えていること』(安達裕哉/ダイヤモンド社)では、

エグゼクティブは電話はかけないし出ない。「言語化する」というコミュニケーションにおいて最も労力のかかるプロセスを電話を受ける側にも負担してもらう行為だから、

という趣旨のことが書かれていました。
電話をかけるかけないは別として、言語化することは労力がかかる、確かに体験的にもそのとおりです。

この、「自分の内のものを、言語という形にして、外に伝えて、どっと疲れる」という流れが、上記のシモーヌの降霊術に似ていると、ずっと感じてきたのでした。

さらに、降霊術が終わった後のシモーヌの体が縮んでいる、というのも象徴的です。
出した分(形を成した子どもの分)、削られてすりへる。

言語化する内容が大切なことであるほど、疲れる

さらに経験から言えば、その「言語化する内容」が自分の内面に深くかかわること、大切なことであればあるほど、労力がかかって疲れます


わたしのなかで、「自分の内面の取扱注意な部分について書くこと」は、自分を理解したり、自分の課題を整理したり、生きていくために必要なことだと感じているので、こうしてお目汚しながらも書くことを、およそ一年続けてきているのですが。

先日来、性被害に関する記事をたくさん書いてきて、とりわけ、#283の記事を書いてからヘトヘトで何もできない数日を過ごしました。
書いたことはわたしにとっては大事なことでした。
だから記憶が薄れないうちに「生」の状態で書き留めておきたいと思った。
でも、「生」すぎたのか疲れ果てて、生活上必要なことも楽しいこともほんとうに何もできなかった。

この間、完璧なアメリの姿を作り出したシモーヌの身体が半分に縮んでいたエピソードをずっと考えていました。

土足で踏み込まれると苦痛を感じる(書いて公開してナンだけど)

自分で書いて公開しておいて、と自分でも思いますが、書いたことが大事であるほど、書いた内容に土足で踏み込まれる(無遠慮な「評価」や不要な「助言」、クソリプなど)と、非常なる苦痛を感じます。

#283の記事を書いて疲れ果てていたのと同じころ 、わたしが書いたとある文章に、「無遠慮な評価」がついて思わぬダメージを受けました。自分で書いているものですから自業自得ではあるものの、実際ダメージを受けてからそのことに気が付いたのだからしかたない。

この点も、降ろした霊の体に触れられると「苦痛のどん底にあるような」「甲高くてゾッとするような」「これまで耳にしたこともないような」悲鳴を上げて呻き苦しむシモーヌの姿を思い出します。

書く人・表現する人にこそ読んでほしい!

ということで、ぜひ書く人、表現する人に読んでみてもらいたい作品です。

30ページほどのごく短編で、図書館でも借りられる名作ですので、ご興味ありましたらぜひお試しください。

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