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愚痴や不平不満、聞きたくないな〜と思ったら。

人の愚痴や不平不満

聞いていて、嫌だな〜と感じることありますよね。

なんでそんなに、ひにくれて

相手のことを解釈して、捉えているんだろう。

客観的に聞いていると

相手にはそんなに悪気があると思えなくて

その愚痴や不平不満に共感できなくて

イラっとしてしまうことがあるんです;泣

そんなとき、自分の心の狭さにがっかりしてしまいます。


とくに、お年寄りの愚痴や不平不満。

私には90歳を過ぎたおばあちゃんがいて、一緒にいると愚痴や不平不満がすごく多いのです(おばあちゃんのことは大好き)。

長年染み付いたの解釈の癖があるから

「愚痴や不平不満を言うものじゃないよ」とか余計なお世話だし、そんなこと言わないで、ただ共感して話を聞いてあげたいな、

とは思うのですが。


なかなか難しい。。

誰かを責める言葉が出てくると

聞きたくない!と

私の耳が自動的に閉まりはじめてしまいます。


で、あるとき

愚痴や不平不満、誰かを責める言葉

そういう話を、なぜこの人はしちゃうんだろう。

そういう話を、なぜ私は聞いてあげられないんだろう。

と考えたことがあります。


愚痴や不平不満を言っちゃう


それは、

自分を守るため

愛情を得るため

そういうことを言ってしまうのではないかと思うのです。

前に、人間の行動には「愛か不安」の動機しかないという記事を書きました↓

で、愚痴や不平不満は

愛が不足しているから出る言葉なのだと思うのです。


あいつはわかっていない、わかってくれない

あいつはこんなところがダメなんだ

誰かを悪く言うとき

相手がいかに自分をないがしろにしているか

だったり

相手を悪く言うことで自分の正しさを示したい

だったり

つまりは、満たされていない心が表現されているように思うのです。

それを一言でいうと

愛情不足


だから、言い方とか、言ってることとか

実は、あまり意味がないのかもしれないと

感じることがあります。



なぜ共感して聞いてあげられないんだろう


愛情不足の言葉に対して

「そんなこと言わないの!」という必要はないですよね。

愚痴や不平不満

一般的には言わないほうが良い!と認識されていますが

私は言ってもいいよ

と考えている派です。

自分のなかに溜め込んで、ぐるぐると毒を溜め込むより

吐き出してスッキリたほうがいいと思うのです。

でも、あまりにも誰かを責める話に、耳が閉じちゃう私;


ただ、そうなんだね。そう思っているんだね。

と聞いてあげたいのです。

愚痴や不平不満を言う心理が

愛情不足なのであれば、

共感されることで、不足した心が少しは埋まると思うので。

(本当は自分自身で満たそうとしないと埋まらないけど)

それなのに、耳が勝手に閉まって

塩対応してしまう私;


この拒否反応は、

愛情不足の不平不満に対して

愛情が奪われてしまう感覚になるからだと思いました。


愛を求めている相手に

そこを埋めてあげようとする行為は

自分のなかの愛が減ってしまう感覚になって

無意識に拒否反応している気がするのです。


私のなかの愛は無限! 減りません。


というわけで、

愚痴や不平不満にも

愛情を持って対応すべく

自分のなかの愛は、減らない。与えても大丈夫。と認識しておくことが大切だと感じました。

私が私を愛しているかぎり、愛は減らないものです。

日頃から、自分をちゃんと満たしてあげて、心のコップを満たして、

足りない人のコップに注げるほどの余裕が、まだまだ私にないのだなと思います。

おばあちゃん、ごめんね。

おばあちゃんの愚痴や不平不満に、ちゃんと共感して聞いてあげられるようになるからね。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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では、また明日!


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