宗教を信仰すること。洗脳を受けること。この二つの違いって??
最初に、二つお詫びする必要があります。申し訳ございません。
1つ目は、ある何かの宗教を信仰している人からすると、この二つは全く異なるどころか比べることすら甚だしいと考えられると思います。ただ、私をはじめ日本人の多くは、自身のことを無宗教と捉え、また特定の宗教を(怖さや不透明さ、知識不足から)信仰するべきではないと考えている人もいます。「初対面の人とは、宗教・政治の話はするな」という言葉もあるぐらいです。
こうした宗教に対して、無関心または、「よくはないもの」と捉えている日本人だからこそ、本題の違いが曖昧になると考えられます。この文は私が勝手にこうした日本人を代表し、私の偏見で述べております。
2つ目は、参考文献を一部を除き、用いていないということです。つまりこの文は一切信憑性もソースもありません。1つ目の最後でも述べたように、これからは全て私の偏見です。
上記二つを理解して頂いた上で、読んで頂くようにお願い致します。
これより本文です
私が考えるこの二つの違いは、信仰する当人がその教えについて、なぜ自分はこれを信じる(信じている)のかを考えられるか、その教えに疑問を持てるかどうかである。つまり、その教えは外部から見て、どうなのかは関係なく、当人に信仰するしないの選択権が委ねられている状態であるかどうかということである。
特定の宗教を信仰すること、宗教を信仰しないこと。この選択は、日本では、日本国憲法20条による「信教の自由」として、個人の人権が守られている。国際的にも世界人権宣言及び、市民的及び政治的権利に関する国際規約において、共に18条で同等の文面がある。
外務省ホームページ(世界人権宣言)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/
外務省ホームページ(市民的及び政治的権利に関する国際規約)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2c_004.html
外務省ホームページ(市民的及び政治的権利に関する国際規約 締約国)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2c_001_1.html
つまり、上記の宣言、規約に参加した国の国民は、自由に宗教を選択できることができる。もしある宗教を信仰したとしても、改宗に棄宗が自由にできることに加え、信仰する=教えを全て守るということではなく、その教えを自由に取捨選択ができるということであると考えられる。もちろん、全ての国が宗教がこうしたことを認めているわけではないが、、、
では、宗教を信仰する理由はどのようなものなのか。家族の影響を除き、ほとんどが心や気持ちといった可視化できないものか、現在の人間の力ではどうしようもないことが関係しているであろう。
新たな選択肢を増やす。
生きる理由を問う。
死とむきあう。
自分を見つめなおす。
人生に迷いがある。
すなわち、宗教を信仰するということは、自分自身の何かのため、自分をよりよくするためであり、その教えについて深く考えるのは当たり前の行為である。既にある宗教を信仰していたとしてでもある。そしてそこに疑問を感じれば、解消するために行動するのも、私は自然だと考える。
だからこそ、私は信仰する当人がよりよい自分になるために宗教を信仰することに加え、その教えについて、なぜ自分はこれを信じる(信じている)のかを考えられる状態であることが、宗教を信仰するということであると考える。
一方洗脳は選択権や疑問をもつことが否定される。一番最初の興味を持たせる段階では、信仰するしないは自由だとか、いたって普通かもしれない。ただ最終的には、持つことが悪とされ、持たないように教えが施される。
そこは、洗脳者が絶対的な力をもっており、自分の選択権、拒否権は存在しない。自分のために信じたはずが、別のものに強制的に変換している。そして当人のその多くは、変換させられていることを認知していないであろう。自分のためではない、創られたなにかのために信仰し、外部から入る教えは全て間違っていると遮断させ、それ以外を考えさせない。
このように、他の考えや信仰するものが絶対となっている状態、これが洗脳を受ける(受けれいる)と考える。
宗教を信仰することと、洗脳を受けることの違い。私の結論は、信仰した上で、そこに選択権があるのかどうかである。自分ではどうすることもできない何かため信仰することは、全く問題のない行為である。しかし、もし自分のために信仰をしていると思っていても、それ教え以外の選択肢が否定され、持つことが悪とされている場合、それは洗脳を受けているのかもしれない。
私の考えはここで終了ですが、もう少し続きます。
これ以降は読んでも読まなくてもどっちでもいいよー。
まずみんな「宗教」「信仰」「洗脳」って言葉で表せますか???
①『広辞苑 第六版』、②『明鏡国語辞典 第二版』によると
宗教
①アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教、特定の民 族が信仰する民族宗教、世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など、 多種多様。多くは教祖·経典教義·典礼などを何らかの形でもつ。
②神や仏など人間の力を超える絶対的なものの存在を信じ、それを信仰すること。また、そのための教義や制度の体系。
信仰
①信じたっのぶこと。宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神を含む)に対する畏怖からよりは、神話の情から生じると考えられ、儀礼とあいまって宗教の体形を構成し、集団性および共通性を有する。
②神や仏を信じ、敬い、その教えに従おうとすること
特定の対象を絶対的なものとして、信じこむこと。
洗脳
①(第二次大戦後の一時期、中国の思想改造をbrainwashingと評し たものの訳語か)新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること。
②資本主義的思想を持つものに教育を施し、共産主義的な思想に改造すること。第二次対戦後の一時期、中華人民共和国が国民党政府の治下にあった人民に対して行ったしそう改造を揶揄的に評したbrain washingの訳語から。
その人の思想・主義などを全面的に改めさせること
ってこと。
「宗教」と「信仰」はどちらも、ほぼ同じ意味だ。「信仰」は『広辞苑』の中では、善なるもののみに限定されてはいる。
「洗脳」に関しては、WW2の時代、当時の中国政府が資本主義という誤った考え(=脳)から、共産主義へという正しい考えへ思考改造させる(=洗う)ためにつくられた言葉ということなんだって(中国語では洗腦と書くらしい)。それが時を経て、「思想や主義をを強制的に改めさせる」という意味で用いられている。
私は知らなかったです。
ここからは、アンケートで答えて頂いた皆さんの回答です。
第三者の目から見た時にどうか
これが一番多かったです。正直これを結論にするのが一番楽でした。ただ、第三者は第三者でしかないと。重要なのは、洗脳者、洗脳を受ける人の関係であると判断たため、第三者という結論はやめました。私も第三者であるという皮肉は残りますが。。。
自分の意思であるか、他人の意思であるか
これに似たものも非常に多かったです。僕の結論もほぼこれです
自然発生か人口発生か
この考えは私には全く出て来ず、歴史を見ても納得できる点ばかりでした。
宗教又はその教えが生まれた原因はなんなのかということです。人間にはどうしようもないもの(自然や死、病気など)に対しての恐れや悩みを克服するためが宗教。強制的に恐れや悩みを生み出し信仰させることが洗脳。確かに。。。
信仰する人数が多いのが宗教、少ないのが洗脳
信仰人数による判断、全部が全部ではないが、確かに一理あるのかも。
信仰を伝える際、第三者から見て悪いこと(洗脳も含め)を行なっている。そして大きくなる前に、潰され終了する。結果その宗教は洗脳集団と判断。一方なにもなければ大きくなり正しい宗教団体として認知されていく。
皆様、アンケート回答ありがとうございました。 以上です。