出版情報
本書から民主主義を教わる
この本を読んで、衝撃を受けたことが2つある。1つ目は、
『民主主義の精神は人を尊ぶ心遣い』。すごい。これって例えばキッシーはすぐ言える言葉かな?あるいは日本の議員たちで、どれだけの人がこんなふうに言えるだろう?
2つ目は、売国奴かどうか愛国心を持っているかどうかは下記が基準となると、著者はいう。(一部を要約し抜粋)
政治は政治家だけが努力してもダメ。国民だけでもダメ。政治家は「一定の自由」と「一定の生活水準」を保障して、恐怖心を取り除くよう努力し、国民は自身の民主力量をもって、『基本的人権と最小限の生活水準が保障される社会』を作り上げる。双方の努力が必要だ、と当たり前のことだけど、現在の日本のどれほどの為政者、国民が理解しているだろうか?
自分のことは抜きにして、相手のことばかり責め立てる姿勢に終始していないだろうか?
『民主主義の精神は人を尊ぶ心遣い」って私がずっと大人になってから知ったディープデモクラシーに通じるものだし、『統治者および国民が愛国心を持っているかどうかの判断』は見ようによっては戦後の日本国憲法に、そして見ようによっては仁徳天皇の民の竈に通じる話じゃないか!国民を大御宝(おおみたから)とする考え方に。それを戦前戦中を日本人として過ごし、戦後の韓国北朝鮮のありように絶望してカナダに渡った、韓国人のおじいさん(著者)から、学ぶことになろうとは。しかも著者は本書を全編日本語で書いているのである。台湾の故李登輝総統も「20歳までは日本人でした」とか「難しいことは日本語で考える」と述べていた。奇しくも著者も李登輝総統も同年代、同時代人。朝鮮と台湾という地域・国の違いはあれど日本統治下で当時の日本の教育を受けた知識人である。お二人が共通して持つ何か大切なもの。戦後日本、日本人が捨ててしまったもの。
日本国憲法のことも、仁徳天皇の民の竈の話も明示的には著者は何も言っていない。でも、透けて見える、大切な何か。
著者の精神性を培ったのは、戦前の日本の教育、日本人の先生たちとの交流、そして、両班の家に生まれながら日本に留学して弁護士活動をし、自らも教育者として尽力した彼の祖父。
日本の私たちも、彼らを通じて学ぶものがあるのではないだろうか?私たちの先人が私たちに、本来、未来に残そうとしてくれたであろう、そして終戦、GHQ統治を通じて失ってしまった、何か『善きもの』を。
反日=愛国者という韓国の風潮を憂う
現在の韓国のたいていの若者は、反日に傾いているという。
そして著者は、今の韓国の人々の反日=愛国者という風潮は『軽率で荒唐無稽な発想と言わざるを得ない』と断じている。
また、『韓国人にとって、反日感情はいかにも勇ましく愛国的でカッコがいい』が、
それでは、実際の日本統治時代の日本人と韓国人の関係はどのようなものだったのか。
こんにち韓国に蔓延している反日感情はいつから生まれたかと言えば、
とはっきり述べている。
明治期に根づいていた民主主義の精神
著者の祖父は両班(朝鮮支配層)にルーツを持ち、幼い頃から漢籍などを学んだ。日本に留学し中央大学を出て(1907年、明治40年)、検事となり2年後に退官し弁護士になった。その一年後に日韓併合が起きる(1910年、明治43年)。それ以降、16年間、弁護士業に携わった。1925年に普成専門学校(現在の高麗大学校)の校長に迎えられ、1932年に普成を去る。その後は朝鮮語文法の研究と国民の生活改善運動に余生を捧げた。
祖父の教えは
結婚の儀式に際しても、通常は嫁に棗(なつめ)を投げ与えるのに対して
上記記述は2005年記とあるので、その頃までの習俗だろう、2023年現在はどうなのだろうか。
著者は祖父と
とのことであるが、
それでは祖父の日本観とは、どのようなものだったのだろうか。
この『国格』という考え方。私はまだ読んでいないが『国家の品格』という本もあるようだ。『国格』とは、つまり『国家の品格』のことだろう。彼の祖父はそれは「国民の人格の平均値」だと言っている。それが明治の日本はしっかりしていた、と。「民主主義の精神は人を尊ぶ心遣い」であり、それが一人一人の人格を形成し、その民主主義の土台が日本および日本人はしっかりしていた、と。私たちは、ここから学ぶものがあるのではないか。失ってはいけないものがあるのではないか。
また彼の祖父は、朝鮮独立について、
彼の祖父は、それを専門学校の校長として、朝鮮語文法の研究と国民の生活改善運動を通して実践していった。
著者の生い立ち
著者は1926年(大正15年)10月に京城(ソウル)で生まれ、数え年20歳で終戦を迎えた。日韓併合は1910年(明治43年)から1945年(昭和20年)まで35年間である。それを遡る5年前に朝鮮は日本の保護国になっているので、日本が朝鮮を保護したり統治したりした計40年間のうちの後半の20年間を著者は日本人として過ごしたことになる。日本は、1919年(大正8年)3月1日に起こった独立万歳デモ事件を契機に、それまでの朝鮮統治の原則を武断政治から文治政治に切り替えた。それにより朝鮮民衆による抵抗はとみに衰え、文化的な生活が広がり経済も向上し比較的穏やかな20年間に著者は生まれ、育ったと言える。
著者の歴史観
本書の中で韓国人の国難二千年史を振り返り、その上で国難史上に比べた日本植民地時代の評価を行い、
と述べている。また、もし日本が統治していなければ、中国やロシアの植民地になった可能性がある、とした上で、
とも述べている。そしてまた終戦時の日本人の引き上げに関して
と述べている。私の身近に韓国その他、外地からの引き上げ者が大勢いるわけではないが、著者がこう言ってくださっていることには、日本人として素直に感謝ししたい。政治や世界情勢に振り回され、財産その他を失った日本人当事者の直接的な痛みが消えるわけではないだろうが(戦後はその痛みすら表現する『言語空間』がなかったのではないだろうか?)、何か善きものも、その地にもたらしたと認識している人がいる。それはすごく日本人である私たちにとって「うれしい」ことなのでは、ないだろうか?父母、祖父母世代、祖先を誇り思えることなのではないだろうか?
著者は自嘲して、下記のようなことも述べている。
朝鮮の文明開化に貢献した日本
実証主義の著者らしく、歴史的事実、統計的事実を挙げながら、半島に対する日本の貢献を簡潔にまとめている。
戦中、戦後の筆者たち家族
終戦直前に、著者に大きく影響を与えた祖父は逝去。父はというと、聡明な人ではあったが、体が弱かったことと、時代的なこともあり、戦後は金銭的な苦労もし、十分に才能を開花させたとは言えないが、最後まで気品ある紳士であった、とのこと。父を中心に母も手伝い著者家族は、新しく商売を始めたり、住居を変えたりしながら、なんとか生計を立てたようだ。『朝鮮動乱が起こった1950年6月25日当時、僕はソウル大法大4年に在学中だった』p219とあるように、著者ら兄弟たちもどうにか学業などを続けていたと思われる。
著者ら8人兄妹のうち上の3人兄弟は朝鮮戦争中、陸軍海軍などに応募し、米の配給なども受けながら、通訳将校として米軍に協力していく。弟一家は日本に定住し帰化(祖父から数えて3代にわたって中央大学で学んでいる)。ほか兄妹は米国へ留学。理学や医学の道へ。著者自身は、多分南北朝鮮分断と、それぞれが独裁政権であること、民主主義が実現されていないことに嫌気がさしたのであろう、カナダに渡り食料品店を営み半島の民主化運動を支援した。晩年になって、日本人の恩師たちとの交流、本書の元となる様々な日本語を含む執筆活動を行なっていた。
著者は『朝鮮戦争後、母校京畿中に奉職し』p102、『1975年にカナダに移住しましたが、その当時…仁荷大学に勤めておりました。その前はソウルの徳政女子大におりました』p109と、教職を韓国で務めた後、カナダに移住し『小さな食品店で生計を支えながら韓国民主化のための反独裁運動に投身し』p109たとのこと。
著者の信念と活動
著者の反独裁の活動内容は下記に端的にまとめられる。これは『民主主義の形式は多数決の尊重だとしても、民主主義の精神は人を尊ぶ心遣いである』P34という、祖父からの無言の教えから帰結されるものであり、ひいては「日帝時代の善きもの」から帰結されるものであり、粘り強く、強い意思を持って表現されている。時を通して、人を通して受け継がれている。現代日本人が学ぶところは、とてつもなく大きい。読んでいて心が痛くなるほど正論だと思うのは私だけだろうか。
本書を読んで:日本と韓半島の関係のこれからを考えるためのヒント
大多数の日本人が終戦を境に、生き方を大きく変えざるを得なかったわけだが、韓半島の人たちも、大きく運命が変わった。
これは慎重に考えたり表現したりする必要があるのだが、事実としては…日本が半島から去った後、米ソはすぐさま朝鮮を分割し、それぞれが南北朝鮮を統治することとなった。その後、中国共産党が後ろ盾となり、北朝鮮が進軍を始め、あっという間にソウルを占拠し、朝鮮戦争が始まった。この戦争で約300万人の人が死亡した。今も北朝鮮と韓国は、基本的には「戦争状態」が続いているのである。この一点だけを見ても、筆者が言うように日本統治時代は、朝鮮半島史上、稀に見る平和で大幅な経済躍進を遂げた時代、と言えるのではないか。
でも、そんな本当のことを認めたら…日帝の統治から解放の途端、国土は分割され、同胞同士が争い、その同胞同士の潜在的な戦争状態が70年以上も続いているとしたら…しかも一方の当事者は失政を続け、同胞を飢えさせ、国土も産業も人心も荒れさせ放題の最貧国に陥っているとしたら…その元凶を賛美するような形でしか援助してこなかったとしたら…そんな状態からは目を背けたいのが人情なのかも知れない。「今よりも日帝時代は酷かった」と思っておきたいのかも知れない。解消できない痛みが数十年続いていて、今度も解消の目処が立ちづらい…。そもそもが分割を前提に「解放」がなされている…。そういう痛みから目を逸らすためにも「反日」が「受け入れられやすい土壌」があるのではないだろうか?だからこそ、『同族を弾圧、喝取、虐殺する国家権力の犯罪には目をつぶり、日本人の韓国侵犯だけを声高にあげつらう。これは価値観の順位の喪失であり、哲学の喪失である』という筆者の正論は、正論であるだけに正視できないほどの心の痛みをも、ともなうのではないか。
話は飛ぶが、香港は1997年に返還されたが、一国二制度は2047年まで維持されるという合意が英国と中共の間でなされた。その合意が2020年に実質的に破られたとき、英政府はビザ発給という形で、香港に住む人々を支えた。日本は韓半島から去るときは有無を言わさず『全財産を没収して日本に追い払った』。戦争に負けたのだから当然、とそれを韓半島の人は行い、日本人も受け入れた。1965年(昭和40年)に合意がなされ賠償も終わっている。(その後も何度もぐだぐだ日本人から見れば『集られている』と認識せざるを得ない状況が続いているが…)。つまり新たな関係構築がなされる基礎固めはとっくに終わり、このぐだぐだこそが新たな関わりとして始まってしまっているようなのだ。…だとしても…韓半島にかつて「善きもの」も残した隣国として何か今と違う関わり方の可能性があるのではないか。お金をばら撒くのでもなく、通貨スワップなどの形でもなく、ATMやたかられ屋という立ち位置でもなく…。拉致や核による恫喝に、遺憾砲しか打てない状況でもなく…。隣国人は北も南も『同族を弾圧、喝取、虐殺する国家権力の犯罪には目をつぶり、日本人の韓国侵犯だけを声高にあげつらう。これは価値観の順位の喪失であり』哲学を喪失しているのだ、という洞察を声高に述べるのでもなく、ただし、この真実は心に秘めながら。この真実と痛みに巻き込まれるのではなく、つけ込まれるのでもなく、上から目線でもなく、できれば共感しながら、あるいは距離をとりながら隣人づきあいを行う…。そういう隣人付き合いもあり得るのではないか。それにはまず、日本人自身が哲学を取り戻す必要がありそうだ。
また隣国の痛ましい分断から私たちも学べるものがあるかもしれない。ただし、それは気をつけないと、さらなる分断を招いたり、際立たせたり、分断を癒そうとする意図そのものを望まない方向に利用されてしまう可能性もある。
7−8年前に、明治維新時に賊軍とされた人々、西郷隆盛や会津藩の藩士らを靖国神社に合祀しようという動きがあったという。政治家や財界の人々も動いていたとのこと。それは結局実現していないが、賊軍合祀のためには、明治維新を総括する必要がある。明治維新の総括ができずに大東亜戦争に突っ込んでいき、終戦から70年経っても、やはり明治維新は総括できていない。いったんある方向に動き出すと、立ち止まって振り返ることはかなり難しい。特に国外からの干渉や思惑が強い力を持っている場合は。でももう、いろいろ総括する時期に来ているし、そういう動きもあるようだ。さらに追って学んでいきたい。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。漢数字、ローマ数字はその時々で読みやすいと判断した方を採用しています。
追記修正:2024年2月24日