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【読書】幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133)

出版情報

  • タイトル:幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133)

  • 著者:加藤 祐三

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2012/9/11)

  • 文庫 ‏ : ‎ 280ページ

和やかな調印式

 本書を読むきっかけとなったのは、室伏謙一氏がネットメディア(YouTube動画だと思う)で、「幕末期の幕府は事前に綿密に調査をし、外交の現場でも相手の狙いは何かを的確に捉え、結果として素晴らしい外交だった。むしろ、不平等条約は明治期の失策により結ばれた」と発言しているのを聞いたからだ。かなり前に視聴したので、動画そのものは探せなかったが、似た趣旨のメルマガ記事と思われるものは見つけることができた。記事の中で参考書として挙げていたのが本書である。1853年のペリー初来航から1854年の日米和親条約締結と下田における追加条約までを描き、日米和親条約の国際的意義を分析し評価している。

 詳細は、ぜひ本書を読んでいただきたいのだが、条約が結ばれた当時、もちろん米国は軍艦を派遣して開国を迫ったわけではあるが、日米両国とも、できるだけ戦闘を避けたい事情があった。本書では、日米お互いの努力の軌跡が理解できるように描かれている
 本書をもとにNHKあたりにドラマを作ってほしいと思うくらい、臨場感にあふれた筆致である。著者 加藤 祐三はれっきとした歴史学者であり横浜市大学長まで務めている。昨今問題となっている歴史捏造とは無縁であり、事実の積み重ねによって臨場感が醸し出されているのだ。一読の価値はある。

 少しばかり、臨場感の一端を味わっていただくとすると…(ご存知の方は、こうしたことはよくご存知なのかもしれないが…)

 以降はネタバレを含みますので、離脱ご希望の方は、ここらへんで離脱してくださいませ。

寒村 横浜での饗応

 様々な話し合いの末に、最終的に、寒村だった横浜村(現在の関内あたり)に幕府の威信をかけて100畳あまりの応接所を建て、ペリー側は約500名が上陸し、うち36畳ほどの大広間に通されたのは30名ほど。日本側は応接掛筆頭の林大学頭だいがくのかみらが出席して、当時江戸で一番の料亭の百川の料理を300人前用意して接待した。林大学頭は今で言えば東大総長にあたるような昌平坂学問所の筆頭で、朝鮮通信使など外交場面で重用されてきた地位にいる人物である。それまでに、日本側はペリーへの病気見舞いと称して、大根800本、人参1500本、蜜柑10箱、鶏50羽、鶏卵1000個などを贈っている。米なども贈っているが、相撲年寄りから町奉行所に「力士を派遣させましょうか?」との上申があり、実際に力士によって米俵を運ばせて、2俵ずつ(100キロ近い)軽々と持ち上げる様子を見て米国人たちが驚いたことなども記録されている。
 連日のように祝砲と称して何十発も空砲の爆音を聞いていたら、「こっちも少しは出来るんだぜ」って見せたくなるというものだろう。

ペリー横浜上陸図 1854年3月8日、ペリーにとって2度目の日本上陸
幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133) p175

 料理そのものは、ペリーたちの口には合わなかったようであるが、おもてなしの心そのものは、通じたようである。
 今度は、ペリーの艦隊のポーハタン号での返礼があり、そこで日本の幕閣たちは、西洋料理に舌鼓を鳴らし、ワインやシェリー酒をしこたま飲み、あまつさえ、余った料理はすべて懐紙に包んで持ち帰った。シチューもソースもデザートも一緒くたに、という(『歴史のかげに美食あり』p31-p33)ことなので「余ったものをそのままにするのは失礼に当たる」とでも思ったのではないだろうか?もちろん美味しかったから、というのもあるだろう。だが帰ったらドロドロの紋付を奥方たちに叱られたに違いない。幕府も威信をかけて料理を用意したが、ペリーの方も相当頑張って饗応したようなのだ。楽隊は演奏を続け、即興劇なども上演したようだ。幕府側外交団で比較的高年齢であった松崎は、現代の居酒屋での無礼講のようにペリーの肩を組み、顔を近づけて「今後は米国と我が国はぜひ仲良くやっていきましょう」という趣旨の発言を繰り返したという。ペリーの側近は「(あのような無礼を許して)いいのですか!?」と言ったが、「なに、条約が結ばれるなら、キスされても構わないさ」と言ったとか。なんか情景が浮かびませんか??

武州横浜於応接所饗応之図(横浜市中央図書館蔵)
歴史のかげに美食あり p25 より

 上掲の『武州横浜於応接所饗応之図』では、ペリー側は椅子に座り、一の膳、二の膳が大きなテーブルの上に乗っているのがお分かりいただけるだろうか?このようにして、今までにない異国との付き合いが始まることになったのだった。
 この饗応をもって、対等外交が始まった、とか、日米双方の相互理解が深まった、と言いたいわけではない(もちろん相互理解が始まる第一歩にはなっただろうが)。だが、人間同士の付き合いの延長上に外交があるのだ、それは約200年前であっても、ということと、手探りではあっても、お互いに誠意を尽くそう、そして自国の国益を守ろうと、努力を尽くした、その一端は垣間見ることができるのではないだろうか?

日米和親条約の国際的意義

 では、日米和親条約の国際的意義とはどのようなものであろうか?
 著者 加藤は19世紀の政体を以下のような4つ分けたp248-p255。

  1.  列強

    • 19世紀中葉では、英、米、蘭、仏、露、スペイン、ポルトガルなど

  2.  植民地

    • インド(1773〜)、インドネシアなど。立法・司法・行政の国家三権をすべて喪失。

  3.  敗戦条約国

    • 清国(アヘン戦争の結果の南京条約=1842年以降幾度も敗戦条約が続く)。「懲罰」としての賠償金を支払い、領土割譲を伴う。司法・行政の一部喪失。

  4.  交渉条約国

    • 日本(日米和親条約=1854年、通商条約=1858年)。タイ(通商条約=1855年)、「懲罰」はなく、司法・行政の一部喪失。日本の場合には、アヘン禁輸条項の明示など。また早期の条約改正を達成した。

幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133) p254

 列強同士の条約が対等なものだとすると、条約相手国が 1. 列強 → 4. 交渉条約国 → 3. 敗戦条約国 → 2. 植民地 の順に従属性が増していく。そして、その従属性が対等なものになっていくのに、4. 交渉条約国であれば約40年、3. 敗戦条約国であれば約100年、2. 植民地であれば約200年もの年月がかかることを上図は表しているp254。そもそも植民地であれば国家元首を失い条約の締結権もない
 では敗戦条約国はどうか?

 戦争の結果、植民地としない場合(植民地維持の経費がかかりすぎると判断した場合など)は、条約上の利益を優先し、敗戦国に不平等条約を強いた。これを私は「敗戦条約」と名づけた。その典型がアヘン戦争の南京条約(1842年)である。「敗戦条約」には「懲罰」が伴った。
 南京条約の場合、領土割譲(香港島が植民地となる)と清朝財政の約半年分に当たる賠償金支払いである。領土割譲は政治的な怨みを残し、賠償金は財政を圧迫し、貧困を招来する
 敗戦国の人々は恥辱にまみれ、貧しさにあえいだ。清朝はこの後の60年間に渡り、度重なる「敗戦条約」を強いられ、ついに財政破綻した。

幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133) p251

 では、我が国が結んだ日米和親条約(=交渉条約)はどうだろう?

 これにたいして、日米和親条約は戦争を伴わず交渉により結ばれた。これが最重要であると私は考え、「交渉条約」と名付けた。交渉条約には「懲罰」の概念が発生せず、したがって領土割譲も賠償支払いもない。代わりに贈答品の交換という古代からの習慣が行われる。不平等性は交渉条約が一番弱い。…
 …日本開国を決めた日米和親条約は、確かに最恵国待遇をアメリカだけに付与する片務性があること、条約に期限がないなど、幾つかの面で不平等な内容が残る。しかし交渉条約により、日本は国際社会へのソフトランディングに成功したのである。幕末維新の政治過程はこれを前提として進む。

幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133) p251-p253

 日米和親条約は、基本的には薪・水などの補給のための港を日本側が開港することと、相互の漂着民を保護するという2点からなる。米国側に開港を求めていない、とか、日本側には最恵国待遇がない、とかの物言いがあるが、そもそも日本はその時点で外国に出張でばってまで何かをしようという意欲はなかったし、米国と諸外国が結んでいる条約は通商が絡んでいたわけなので、日本としては通商条約など結びたくもなかったのだ。その時点では不平等さが却って日本を守る、と考えていたわけで、その時点では最適な選択であり条約だったのでは、と私は、思う。

 もう一点、重要なことはいわゆる治外法権がないことである。「保護した米国人漂着民は「正直の法度には服従いたす」」という条文があるp214。ペリーは本国で「これは日本の正しい法律に服す」という意味ではなく、正義と人道主義に基づく法に服す、という意味です」と釈明しているp222。条約の締結には議会の承認が必要なので、「日本の法律に服す」では話がややこしくなると思ったのだろう。だから日本側にも、誠意を尽くして「米国民はみな、『正義と人道主義に基づく法』を理解していて決してこれを破ることはない」などと説明したのではないだろうか?日本側もまた、国を超えた『正義と人道主義に基づく法』があり得ると理解したのではないだろうか?国同士であっても「今だけ金だけ自分だけ」を超えた関わりを築くことができる可能性がここにはあるように思えるのだが。なぜこれが200年近く前にできて、今日できない局面がこれほど多くあるのだろう?と残念に思うのは私だけではないだろう。

 幕府はその時に贈られた蒸気機関車の模型(1/4サイズ)などなど、ペリーたちとの接触から、新しい思想や技術の存在を知り、その秘密を自分たちのものに転嫁できた。たとえば外洋帆船の製造、新しい武器類の開発、蒸気船の発注と導入、そして外国の学問・芸術・諸制度への強い関心などであるp253。
 薩摩を中心とする志士たちの西洋密航の流れは、やがて留学生派遣やお雇い外国人招聘など、明治へと継承され発展していく。これも最初の対外関係が交渉条約であったことに由来するp253。
 このように日本国内の技術発展や政策、人材育成に、開国の条約が「交渉条約」であったことが有利に働いただけでなく、国際的にも意義があったのだ、と著者 加藤はいう。

弱肉強食を基調とし、有無を言わさぬ戦争か政治の主な発動形態であった時代に、それとはまったく異なり、戦争によらず、平和的な交渉による国際関係への道を開いた。国際政治は、旧来の固い構造に交渉条約が加わり、柔構造に変化したのである。

幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133) p253

 なるほど〜。慧眼だなぁ。加藤は「それまで条約は強者の論理で強い方に有利に、弱い方に不利に結ばれていたのが、利益・不利益が均衡点に近い条約が交渉条約に他ならない。これが欧米列強感ではなく、日米間で実現した」と述べているp254-p255。つまり列強間の条約であっても強者・弱者の間で有利・不利があったものが、日米和親条約では有利不利がほぼ等しい『均衡点に近い条約』であったと述べているのだ。つまり、弱肉強食の世界を脱している、と。

 その後、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、この時はまだ、双方の話し合いで関税が決められており不平等条約とはいえないものであった。しかし英国との条約で不平等条約への端緒が開かれ、1866年の改税約書で自主関税権を失うこととなった。それらは幕府の失策、というよりも、生麦事件薩英戦争下関戦争など他藩の起こした欧米列強との戦争のツケを幕府が関税権というかたちで払わされた、という側面が大きかったようだ。
 さらに明治維新、日清、日露戦争があり、1911年に自主関税権を回復するものの、第一次世界大戦、大東亜戦争があり、原爆投下という市民虐殺を経て、GHQが進駐し、日米合同委員会などが設置され、日本はまんまと弱肉強食の世界へと引きずり込まれてしまっていた。高度成長期の繁栄により、目隠しをされていたのが、失われた30年の後、やっと米国の属国であったのだ、と気づく日本人が増えている昨今である。
 ん?過激なものの見方?そうかな?

 私たちはまた、知恵と誇りを取り戻せるのだろうか?




引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。


おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。

幕末外交と開国 (講談社学術文庫 2133)

西洋人の目から見た幕末日本

最初に不平等条約を締結したのは?

「最初に不平等条約を締結したのは明治政府でした。オーストリア=ハンガリー帝国と締結した条約がそれです」、とのこと。

日墺修好通商航海条約

 室伏謙一氏によれば、この条約が本当の不平等条約である、と。
「欧米列強による日本に対する不平等条約の集大成」wiki。だが、1866年(慶応2年)の改税約書で自主関税権を失っていたようだ。


幕末明治期の饗宴外交史

 ペリーへの饗宴から西園寺公望の美食談まで。

室伏謙一の著書など

不平等条約が完成したのは1869年(明治2年)の日墺修好通商航海条約だが、それまでに
下記翻訳本が一番面白そうだった。

渡辺惣樹の著作

下記著作などは、本書の延長で読むと面白いのでは、と思った。




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