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解凍方法の開陳(現代語訳『古事記』では分からないこと 12)

『古事記』冒頭は、ほぼ神々の名前が列挙されるだけなので、書き下し文や現代語訳を読んでも意味が分からない。

私はこれを、圧縮データのようなものだと書いた。

圧縮データであるからには、解凍(圧縮前の情報を取り出すこと)できるはずだ。今回はこの方法について書く。


■『古事記』冒頭を読み解く方法

『古事記』冒頭を読み解くのに、私が取った方法論は単純だ。

原則1.『古事記』を聖典として扱う。

神道には教義も経典もないため、『古事記』を聖典として読むといってもピンとこないかもしれない。

世界で一番売れている聖典は聖書だが、聖書を聖典として読むことを普及させたのは宗教改革である。
カルヴァンらによって宗教改革がおこされるまでは、聖書の読み方はカソリック教会に独占されており、信者は教会から聖書の中身を学んだ。

活版印刷の普及によって多くの人が直接聖書を手にすることができるようになり、聖書を読む機会が身近になったことが、宗教改革の背景の一つであることは、歴史の教科書が教えてくれるとおりである。宗教改革は、活版印刷というテクノロジーの助けを得て、人々と聖書とを直接結ぶ回路を開いたのだ。

カルヴァンは、主著『キリスト教綱要』に、聖書に対する新しい態度を3つ記している。

1.聖書をくまなく調べよう
2.真の敬虔に達するために、教父たちの優れた著作を読む必要はない
3.聖書は聖書固有の秩序を持っている

『真のキリスト教的生活』(『キリスト教綱要』抜粋)カルヴァン(創英社/三省堂)より神辺まとめ

これらは、聖書を聖典として読む場合に、必然的に導きだされる結論であり、『古事記』を聖典として読もうとした場合には、同じような結論になる。

要するに、聖典は唯一無二で単独の存在である(前提)ため、
書かれていることの全てに意味があり(1)、
他書の註釈なしに読めないような読み方をせず(2)、
独自の体系を尊重して読む必要がある(3)ということだ。

これを『古事記』においても実践することで、『古事記』冒頭は読み解けてしまう。


■唯一無二で単独の存在として扱う

すなわち、前提として『古事記』を聖典と見なし、『古事記』を唯一無二で単独の存在として扱う。これによって、記紀神話として『日本書紀』と相互参照して読むことから離脱する。

『日本書紀』の神話部分は、日本古来の発想にはない陰陽思想にもとづいて書かれた漢籍の切り貼りであることがわかっているので、これは好都合である。
そもそも『日本書紀』は歴史書なので、併読する場合は、『続日本紀』同様に、天皇列伝部分のみを参考にする。


■書かれていることの全てに意味があるものとして読む

次に、書かれていることの全てに意味があるものとして、くまなく読む
例えば、

天地あめつちはじめてあらはし時、高天原たかあまのはらに成りませる神の名は、天之御中主神アメノミナカヌシのカミ

『古事記』冒頭の第一文

と書かれているものを、はじめての神として天之御中主神アメノミナカヌシのカミが誕生されたとは読まない(「神の名は」の記述を無視しない)。書かれていることを寸分もないがしろにしない読解態度が重要である。


■他書の註釈なしに読めないような読み方をしない

次に、他書の註釈なしに読めないような読み方をしない。例えば、産巣日むすひの神の性格を、他書や特定の民族部族の伝承に求めたりするような読み方をしない。『古事記』を『古事記』においてのみ解釈するのである(*1)。


■独自の体系を尊重して読む必要がある

次に、独自の体系を尊重して読む。例えば、一読して矛盾があるような記述に対し、古代はおおらかだったからという逃げをせず、欠損している部分があるといった証拠のない仮説を持ち込むような読みをしない。矛盾を解消するような解釈を発見することが大事だ(*2)。


■『古事記』冒頭を読む

これだけで、『古事記』冒頭は解凍されるのである。

これらを念頭に『古事記』冒頭の記述を構造として捉えることで、『古事記』は自然解凍されてくる。

序文にある造化の三神(三神造化)は、『古事記』の本文にはないが、最初の三神と後の神々を分けるのは時の変遷であること、
この時の変遷が「国」についての記述であること、
この時の変遷の最初の二神は神世七代に含まれていないこと、
神世七代の初代と、その直前の神が、常立神であること、
神世七代は二代目まで独神であること、
独神でない神々のうち、イザナキ・イザナミの直前の神々のみが神名に類似がないこと、、、

こうしたことを矛盾なく解釈しようとすれば、自ずから『古事記』冒頭は解凍されゆくのである。

『古事記』冒頭の記述の構造整理


■日本的霊性

かつて鈴木大拙は、日本的霊性は鎌倉仏教によって初めて明白に顕現したと指摘した。親鸞の『教行信証』も、道元の『正法眼蔵』も相当に論理的に書かれている。本来の日本のスピリチュアルは、感覚と理詰めともうひとつ(乱暴に言えば、浄土系であれば社会性、禅宗系であれば所作を含めた身体性)のトライアングルに浮き出るものであり、『古事記』冒頭の封印を解くにも、このトライアングルが必要だ。

現在の日本のスピリチュアルは感覚に偏っている(*3)だが、よく考えて見れば、五感では『古事記』は読めない。『古事記』は文字で書かれているからだ。ただ視覚があるだけでは、文字を見ても、その意味を捉えることはできない。聴覚や触覚や嗅覚や味覚を研ぎ澄ませて総動員するのは、文字の意味をつかんでからだ。

第六感や霊感が優れていれば読めると思う向きもあるかもしれないが、その読みを、思い込みと指摘された場合に反論することは困難であるし、第六感や霊感で本当に『古事記』が読めるかどうかも疑わしい。
第六感や霊感で『古事記』を読むには、パソコンでファイルに圧縮をかけたものを解凍せずに第六感や霊感で中身を再現する能力があればよいのだが、そんなことに第六感や霊感を使おうという人はいないだろう。さっさと解凍ツールを使った方が早いし確実なことは、誰の目にもあきらかだ。

第六感や霊感は、圧縮ツールや暗号解読に使うためのものではない。第六感や霊感は非言語ノンバーバルな世界の認識のためのものであり、言語で書かれた聖なるものは、聖なる論理によって深淵に迫る必要がある。

『古事記』冒頭が圧縮データのように書かれていることは、現代に失われてしまった本来の日本的霊性(感覚と理詰めと社会性・身体性のトライアングル)を取り戻してみよという『古事記』から現代人に宛てた警鐘メッセージに思えてならない。


感覚と理詰めと社会・身体性のトライアングルで読む

原則2.感覚と理詰めと社会・身体性のトライアングルにおいて読む

聖典は、時代を超えて意味を持ち、どの時代にも新しい意味を生む源泉となる。『古事記』を聖典として読むことは、いまを生きる我々の身体に『古事記』を引き受け、現代の課題を照射して読むことをいとわないことでもある(*4)。

神道は、聖典を持たない。ゆえに、『古事記』を聖典として読むことに宗教的な根拠はない。
それでも、『古事記』は聖典として書かれたという事実は消えない。そこに、『古事記』を聖典として読む根拠がある。


◎註釈

*1 かつて同じ問題意識で書いた記事があります。(注意:長いので本当に興味がある人にのみ、読むことをお薦めします)


*2 かつて同じ問題意識で書いた記事があります。(注意:長いので本当に興味がある人にのみ、読むことをお薦めします)


*3 かつて、その弊害について私の体験をもとに書いたことがあります。(注意:長いので本当に興味がある人にのみ、読むことをお薦めします)


*4 かつて、同じ問題意識で、Qアノンや、失われた30年について書いた記事があります。(注意:長いので本当に興味がある人にのみ、読むことをお薦めします)

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