現代語訳では分からない天之御中主神/アメノミナカヌシ・誕生編(対話『古事記』2)
稗田阿礼は、元明天皇に命じられ、その孫の首皇子に、天武天皇に授かった『古事記』の冒頭に書かれていることの意味を伝えることになった。
初日に、編纂が進められている『日本書紀』の「天地開闢」とは全く違う「天地初発」の意味について語った阿礼であったが、2回目の今回は、天之御中主神について語り始めた。
■最初の神
稗田阿礼 この世界のはじめの時に、天と地が、自らが天と地であることに気づき、この気づきにより、時が動き出し、世界ははじまりました。天に高天原というところがあり、そこにはじめての神さまが誕生されました。その神さまの名前を、天之御中主神と言いました。
首皇子 はじめての神として、天之御中主神が誕生されたんだね。
阿礼 正確には、はじめての神が誕生され、その神の名を、天之御中主神といいました。
皇子 同じじゃないの?何か違うのかい?
阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様が誕生されたことと、ある神さまが誕生されて、その神さまの名前が天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様だったというのは、意味が違うのです。
皇子 どこが違うの?
阿礼 天之御中主神が誕生されたのではなく、はじめて誕生された神の名を天之御中主神と呼んだのです。
いいですか。神さまそのものを、すべてあらわしきってしまうような呼び名はありません。あったとしても、それでは畏れ多くて口にすることはできません。そこで、神さまのすべてをあらわす名前は問わないことにして、その神さまの働きをもっともよくあらはす名前で呼んだのです。
皇子 よく分からないな。
阿礼 中国では、諱(いみな=忌み名)と言って、畏れ多い方に対しては、本名を避ける風習があります。ズバリの名前は、尊すぎてその名を呼ぶことははばかれるので、その方の業績をたたえて、その業績を簡潔にあらわす名前が贈られます。これに似ていますが、名前を持たずに生まれてくることは、それ以上に尊い意味があります。
皇子 どんな意味があるの?
阿礼 『古事記』の最初の方に書かれている神々は、「神の名は、〜」とあるように、名前を持たずに生まれ、誕生後に名前で呼ばれた神々です。神の名は、その神を褒め称え、その存在や働きに感謝し祝福するために付けられるものですが、神の可能性は、その祝福の名前さえも超えるものです。
皇子 なるほど、そうなんだね。
阿礼 神々に倣って、我々もそうしています。皇子は、首長の中の首長として天皇になられる存在です。だから首と名付けられたのだと思いますが、首皇子の存在は、やがて首長の中の首長となられることだけで語り尽くされるようなものではありません。もちろん、首長の中の首長となられることは大変に畏れ多い尊いことですが、一面的といえば一面的です。皇子の可能性は、首皇子という名前を超えたものです。
神がそうであるのだから、人もそうであるのです(*1)。
最初の神について書かれた文章が、「高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。」であることは、人も無限の可能性を持って生まれてくるのだということを教えてくれているのです。
■高天原に誕生した意味
皇子 天之御中主神は、高天原という天の中心である最高の場所に誕生されたんだね。
阿礼 違いますよ。『古事記』の文章をよく読んでみて下さい。「天地はじめてあらはしし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。」には、高天原が天の中心だとは書いてありません。
皇子 でも高天原と言うくらいなんだから、そこは最高の場所なんでしょう。
阿礼 確かに、高天原は、「原」ですから、ある特定の場所であることを示しています(*2)。しかも、高き天の原ですから、やんごとなき特定の場所であることは間違いありません。
けれども、そこに、天之御中主神が誕生されたのですから、誕生前の高天原は、天の中心ではありません。
そうではなくて、天之御中主神の誕生によって、そこが天の中心となったのです。
神々の意義を見るには、その神のいない世界を想像してみることです。天之御中主神がいなければ、世界に中心はありません。天之御中主神が誕生されたことによって、天に中心というものがもたらされたのです。
皇子 世界に中心をもたらしたことが、天之御中主神の偉大さなんだね。
阿礼 おっしゃるとおりです。中心がなければ、右も左も、上も下も、前も後ろも、意味を持ちません。それどころか、自分を中心として他者を見ることもできませんから、自分と他人の区別もつきません。そんな世界には、神々も人も住めません。
皇子 だから、一番最初の神が天之御中主神なんだね。
阿礼 そのとおりです。
(天之御中主神・つづく)
◎註釈
*1 この思想について書かれたものに、『日本人にとって聖なるものとは何か〜神と自然の古代学〜』(2015・上野誠・中公新書)があり、お薦めです。
*2 古代日本語では、「原は野のなかの特定の地点を区別する指標」であり、「野のなかで、ほかの地域と区別できる何か明瞭なものを示せる部分が原」である。(「古代における原と山野」松尾光『万葉古代学研究所年報 第1号』2003.3 万葉古代学研究所)
◎現代語訳古事記ではわからないポイント
これらのポイントの解説が、上記の対話であきらかにしたかったことです。
◎今回のあとがき
お気づきの方も多いと思いますが、今回の記事は以下を加筆修正し再編集したものです。
この時は、書きたいことは皆書いたつもりだったのですが、いささか詰め込みすぎてしまったので、難しいという感想をけっこういただきました。
そこで、今回は前回箸休めのつもりで書いた対話編を思い切ってメインにし、1回毎の記事をポイントを絞って整理しなおしてみることにしました。
あれから、世の中も変わり、生成系AIの進歩と普及により、現代はアメリカのテック企業主導で、世界のかたちが変わりつつある時代です。
飛鳥の昔、世界の潮流の変化によって国のかたちが変わらざるをえないときに、『古事記』は書かれました。
やがて、日本にとっては三度目の同様の時代がやってくることになります。二度目の時は国家神道により『古事記』冒頭の神々の声は封じられました。三度目の今回はどうでしょうか。埋もれていた古来の神々の声は、不思議なほど現代の時代潮流にマッチしているがゆえに、その声を届けたい。そんなことを考えながらこの連載を続けています。