「アルジャーノンに花束を」
幼い時の僕たちには血の繋がりの意味は分からなかった。
なぜなら同じ団地で暮らしていて、毎日のように顔を合わせて遊んでいれば、それは家族と変わりなかった。
団地には僕と同い年の友達が8人いた。
8人は毎日、団地にある広場や公園でサッカーをしたり、近くの田んぼでザリガニを捕まえたりして遊んでいた。
団地特有の関係性なのだが、団地で暮らす両親たちは夜、働きに行って、夜中ずっといないこともよくある。その場合は友達の家が預けられて、一緒に夕飯を食べたりもするのだ。
6歳になり僕たちは小学生になった。この団地の同級生たちもみんな同じ小学校に通う。
小学校は1組から5組まであった。
クラス分けで、同じ団地に住んでいる友達もクラスが別々になった。
団地の友達3人は1年3組、そしてもう3人は1年5組。
僕のクラスは1年4組で、団地に住んでいる友達とは、僕とIくんの2人だけだった。
そして、このIくんは知的障がいを抱えている友達だった。
当時6歳の時の僕は知的障がいという言葉は知らなかった。だけどIくんが他の子と違っていることは幼い僕から見ても明らかであった。
ゲームのルールを理解するにも時間がかかるし、言葉も語彙が少ないから自分の言いたいことを伝えるのに時間がかかる。運動するのにもまっすぐ走ることができない。いつも鼻水を垂らして、鼻下がカピカピになっていた。
でもIくんは僕たちと遊ぶ分には、十分なコミュニケーションができた。
Iくんはゲームは好きだった。ストリートファイターでよく二人で遊んだ。
くんはザンゲフが好きだったので、よくザンゲフを使っていた。Iくんはゲームは上手くないのに、ザンゲフなんて上級者が使うキャラクターを使うもんだから、僕と一緒にゲームをしても対戦相手にならない。
なので、僕もわざとダメージをくらい接戦にするようにしてIくんと遊んでいた。
団地の中にいればIくんが他の人と違うことを皆が理解していたけど、学校の中では、団地仲間で僕だけが唯一Iくんと同じクラスだ。
他のクラスメイトはIくんが知的障がいを抱えていることを知らない。
最初のクラスでIくんが先生に名前を呼ばれて、ちゃんと「はい!」と返事ができるかどうかと言うことから心配だった。
先生に名前を呼ばれ「……ぁぁはい!!」と、呼ばれてから妙な溜めを作って返事をした。
その鉄砲でもくらったかのような返事でクラスに笑いが起こったが、僕はちゃんとIくんが返事ができて良かった…とホッとした。
僕の学校は1年生2年生ではクラス替えがなかったので、2年間ずっとIくんと同じクラスだった。
そして僕は1年生の途中くらいからクラスの中で自然とIくんのお世話係のような役回りになっていた。
何かグループを作るなり、遠足に行くにしても僕は必ずIくんと同じ班になった。なったというより、先生が必ず僕とIくんを一緒にするようにしていた。
給食当番も僕はIくんと同じ班で、僕がIくんにエプロンを着せたり、帽子をかぶせたりしていた。
もちろん他のクラスメートも手伝ってはいたが、Iくんに関しての主な役目は僕だった。
それでも、僕が面倒をみることが嫌ではなかったのも、団地での結束なんだろうなと思う。
3歳4歳くらいの時から毎日のように顔を合わせて、お互いの家に行って遊んだりしていて兄弟のようにIくんのことを知っている。
2年生になれば、僕の席はIくんの隣に固定になった。2年生になると僕たち自身も1年成長している。
そうすると、よりIくんの知能が遅れていることが目立ってきていた。
Iくんは学校の勉強にはついていけない。なので、僕がいち早く自分のことを終えさせて、隣のIくんの勉強を教えた。
でも、もう頭を使って理解できることはなかったので、教えたというよりも僕が答えを教えて、それをIくんが書いてなんとか終わらせていた。
それでもプリントを全部書き終えたあと、Iくんは「できた!!」と言って先生のところに駆け足で行って喜んでいたり、僕が説明することをサボっていると3歳くらいの子どものように駄々をこねて泣き出したりしていた。
知的に障がいがあっても喜怒哀楽の感情は、鮮やかな色を使っているようにカラフルだった。
ある日の学校の帰り道だった。
僕のクラスではIくんのことも皆が理解してバカにする人もいないのだが、Iくんの子を知った他のクラスのガキ大将がIくんをからかってきたのだ。
「お前、波動拳やってみろよ!」
ストリートファイターのゲームの技をしろと、ガキ大将はIくんに言った。
ストリートファイターが好きなIくんは、ガキ大将に言われるまま「波動拳!波動拳!!波動拳!!!!」と嫌がるそぶりもなく、本気で波動拳のポーズをした。
僕はその時Iくんの隣にいて、その一連の流れを見ていた。
「波動拳」をするIくんをケタケタ笑っているガキ大将に無性に腹が立った。ジリジリと胸の奥で熱くなっているものを感じる。
しかし、、、当時の僕は強い敵に対して立ち向かえる人間でもなかった。
そのガキ大将に歯向かったら、何をされるかという怖さは、僕の胸の奥の熱を冷ましてしまう。
その場で立ちすくんで「早くIくんから離れろ!」と祈ることしかできなかった。
Iくんを守るよりも、自分に火が飛んでこない事の方を気になっている弱い自分がいた。
そして実は、それ以上に僕は自分の弱さを認識した経験があった。
2年生になってから僕もだんだんとIくんといるのが疲れてきていたのだ。
疲れたという表現は適切ではないが、今まで団地の友達しかいなかった自分にも他の新しい友達ができた。
クラスの中で班を決める時も、新しい友達と行動したいと思っているのに、僕はずっとIくんと一緒でないといけないのだ。
僕の小学校には六会カーニバルという文化祭みたいな行事が毎年あった。
各クラスでお化け屋敷とかゲームセンターとかいろんな出し物を準備する。
僕の本当の気持ちは、他の友達たちと皆なで遊びに行きたかったのだが、僕はIくんと一緒に回るしかなかった。
クラスの皆もIくんが一緒にいるとが嫌ではないが、楽しみにしていた行事がIくんと一緒だとどうしても散歩でもするような足取りになってしまうのだ。
だから僕はIと二人で学校を周り、射的やボーリングなどをして遊んだ。
もちろん僕も楽しいのだが、どうしても僕はIくんが楽しめるものを優先するしかなかった。
学校の中をIくんと二人で周っている時に、僕が本当は一緒にこの行事を楽しみたかった友達たちがいた。
「おー!フル(小学生の時の呼び名)!!楽しんでる?!」
「うん、楽しいよ」
彼らの弾んだ声、頰が上がっている表情、きっと楽しいのだろうと言うことが伝わる。
そして僕たちの横を過ぎ去って行き、彼ら後ろ姿をもずっと見つめた。彼らが一歩一歩、歩くたびに背中や肩は上下に揺れていて、後ろ姿までも楽しんでいるようだ。
六会カーニバルも終わりのチャイムが鳴った。
僕とIくんは自分たちの教室から一番遠いところにいる。この場所からだと急ぎ足で戻らないと遅れてしまう。
なので、僕はIくんに「早く戻るよ!」と言って手を引いて、走ろうとするのだがIくんはまだ遊んでいたいようで、中々速く歩いてくれない。
全く急ごうとせず、呑気にしているIくんに腹が立ってしまった。
このままだと遅れて先生に怒られると思ったので、Iくんの手を思いっきり引いた。
しかし、Iくんは、急に僕が引っ張った事に驚いたのか僕の手を振り払ったのだ。
その勢いで僕は大きく転んでしまった。
膝をものすごく強く打ってしまい、そして、手に持っていた学校のマップまでがビリッと大きく破れてしまった。
このマップは最後に、遊んだアトラクションに丸をつけて先生に提出することになっている大切なものだった。
その時、急に胸がキューっと締め付けられ、感情が溢れ出し、僕はここで泣いてしまったのだ。
Iくんは泣いている僕を見て「どうしたの?どうしたの?」と聞いてきた。
泣いている理由を聞かれる自分の惨めさからIくんに「うるさい」と小さい声だが、自分の気持ちが声になって出ていた。
それでも僕はIくんを引っ張って教室に遅れて戻った。
そしたら今度はIくんが「せんせい、フルヤくん、がないた」と言い出すのだ。
今度はみんなが「どうしたの?何で泣いているの?」と聞いてくる。
理由なんて答えられない。訳もない悲しさが溜まっていたのだ。一つ一つの小さな塊が今日をきっかけで喉に詰まるような大きなものに変わっていたのだ。
僕は席に着き、黙りながら、大きく破けた学校マップに行ったアトラクションに印をつけ、その後いつも通りIくんの分も書いて先生に出した。
次の日、昨日提出した学校マップが返却になった。
僕の破けた学校マップはセロテープが貼られていて直っていた。そして先生から「Iくんのこといつもありがとう」と一言メッセージがそえられていたのだ。
その先生の言葉を見たときに、自分が昨日Iくんにイライラしていたことが急に申し訳なくなった。僕も結局は単純な正確なのかもしれない。
自分がこのクラスの中で一番Iくんのことを知っている。団地にいる人は兄弟だ、そう思っていたのに、何で面倒だと感じていたのだろう。
家に帰って、冷凍庫に入っていたチューペットアイスを持ってIくんの家に行った。
「昨日はごめんね」と言ってチューペットアイスを渡した。だけどIくんは何のことか分からないようだ。
そしたらIくんは「ゲームやる?」と僕に言ってきたので、また何もなかったかのように一緒にゲームをやって遊んだ。
2年生が終わって3年生になる時に、Iくんが転校することになった。
Iくんの家族が隣の町に引っ越すことになった。転校を機にIくんも3年生からは普通の学級ではなく特別支援学校で勉強することになった。
引っ越しの時、最後の見送りをした。
「また遊ぼうな!」
最後の言葉が「また遊ぼうな!」という語尾が「な!」という、なんともキザな言葉遣いをしたなという記憶は今でもその時の情景を含めてしっかりと再現できる。
Iくんと一緒にいたのは8歳までしかなかったが、Iくんと一緒にいた記憶は氷のように一瞬で溶けてなくなってしまうものでなく、僕の心に染みているものになっていた。
僕は大学では教育学を専攻していたが、余分に障がい児の教育についても勉強した。
勉強すると当時のIくんの心の奥底にしまっている遠い思い出を取り出しては、今、勉強している自分とこうやって繋がるのかと、Iくんと出会えたことに感謝している。
僕の中では一緒にゲームをやって、ザンゲフが好きだったIくんの顔はずっと心の中に残っている。
「アルジャーノンに花束を」は知的障がいを抱えたチャーリーの一人称視点で書かれた物語。ある日チャーリーは大学教授の元、脳の手術を勧められ、手術をすると知能がどんどん賢くなっていった。本の内容もさることながら、この本の文体は「知的障がいを抱えたチャーリーが書いている」ということを巧みに表現しており、その文体を翻訳した小尾さんにも賛辞を贈りたい。
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