波へ帰る
某月某日、私も隊列に加わろうと思う。変わらぬ世の中だとは思うが別の景色を見てみたくなった。ただ、同じものを見上げるか見上げないかの違いだが。あの天蓋へ登るには列車に乗らねばならないらしい。金を払う必要はないが、代わりにこの肉体は一度手放さなければいけないとのこと。あちらへ登り切ればまた返してもらえるのだそうだ。早速切符を買おう。私は駅へ向かう。
いつもと違う時間に駅へ着いた。いつもより少し高く日が上って、また今日も夏の残骸を降らすのだと言うかの如く、チリチリとした空気を感じる。これといって特別な手続きを踏む必要はないようなので、いつもと同じ行き先、使い古した定期券で改札を通る。いくら肉体を一度手放すからといってやはりトイレは心配なので毎朝繰り返すルーティーンのような生理的な自己発散を行う。体に染み付いた不安というのはなかなか拭えない。きっかけはわからないが常に漠然としたもどかしさを下腹部に抱えるようになって、落ち着かないようになって、多少の慣れはあるがやはり不安。なんとか振り切って4番線に向かう。
いつもと違う長さの車両。乗り込むと普段は学生、サラリーマンばかりの車内だが、この時間は子供連れの夫婦や、どこか出かけに行くようなお年寄りが多い。席も空きが多いが、無意識に首を後ろに預けやすくかつ、エアコンが当たって涼しそうな場所を探す。座る。
アナウンスが鳴り、列車が動き出す。ドアが閉まる警告音、パタン。走る準備、フシュウ。車体の年齢を窺わせるような軋む音、マキマキ。車輪が回り出す、カラコロ。 走り続ける、コトンタトン。
いっぱいに泣き始めた列車に揺られて、目を閉じる。声が聞こえる。3歳ぐらいの男の子だろうか、先程の子連れの夫婦は私の向かいの席に座っているようだ。きっと窓の外に見えたのだろう。「ショベルカーだ!パトカーだ!」嬉しそうに父親に話しかけている。無邪気なその姿は実際には視覚に映していないのに、まるで以前に見たことがあるかのように鮮明に脳裏に映し出される。私も小さい頃は乗り物が大好きだったらしい。今となっては自らも便利だと利用しているくせに、その傍で人殺しの化け物だとも他言してしまうようなどうしようもない価値観で塗り潰されてしまっている。純粋な気持ちはその反面恐るべき残酷さも併せ持っていることは理解しているが、未だにそんな気持ちを心底欲しているのは人間の、私の創造と破滅を繰り返さなければ生きていけない性というものを、実によく内面に投影させているとよく思う。
悲しい。本当にそう感じる。
段々と意識が遠のいてきた。いつもと変わらない眠りに落ちるようだ。恐らく一度肉体から離れるところなのだろう。あちら側へ行ってみよう。再度心に決めた。
着いた。天蓋だ。いつのまにか肉体も返されて、ものすごい人数で構成された隊列の一部になっていた。人と人との間は3メートルほど離れていて、私が見上げてその奥に見えた景色そのままがここにある。足下はやはり空の上らしく、厚い雲とその先に地上が見える。どこなのかはわからない。頭上には宇宙にも見えるような藍色と鮮やかな金色が散りばめられているが、よく見るとハリボテだ。真っ平らにどこまでも広がっている。つまりはこの空間は横には際限ないが、上と下は平らな平面に挟まれ、人間がサンドウィッチにされているような状態らしい。周りの人々は至って普通の人間でただ駅前の交差点を歩いているかのようだ。この隊列の行先はまだ見えない。とりあえず歩いてみる。
行き先が見えた。というより人の隊列が途切れているところが見えたので暫定的にそこが行き先だろう。ここまで歩いて何か良いことがあるのではないかとの期待も虚しくここまできたが、漸く変化が見られた。しかしおかしい。よくよく見ると前方に見える隊列の頭達は次々と下降しているように見える。足下を見る。いつのまにか真っ青になっている。海だ。直感でわかった。要するに皆、海へ落ちているのか。思ったより呆気なく元の世に戻されるらしい。違う景色が見たいという思いは叶ったには叶ったが心境にはなんの変化もない。まあ、結局こんなものだろう。潔く落ちてやろう。
私の番が来た。さっきまではどこまでも続いているように見えた宇宙色と地球色のサンドウィッチの空間はいつの間にか消え去って、足下は一枚の金属板。周りには雲と青が広がって、地上から遥か高い所にいる。下は海。飛び込む。圧倒的速度。風がこの身を切る。きる。キル。斬る。体を見る余裕もないので実際はわからないがひどい有様になってるであろうことはなんとなく分かる。目も開けていられない。そんな思考の一瞬のうちに強い衝撃。水面に撃ち当てられる。沈む。
気づくと何故か形保っている体は自然と水面に浮いていた。それに加えて軽やかに流れる波に全身を包まれていた。進む先には陸が見えた。どうやら律儀に地上に返してくれるらしい。いらぬ心配だ。全身の力を抜いて波に身を任せる。
なんだか懐かしいような感覚。海の癖に暖かい。自ら漕がずとも勝手に進んでくれる。優しい、ふと思ってしまう。
次第に地上が近づいてくる。いつまでもこのまま流されていたい。しかし波は進み続け、いつかは岸に溶けゆくものだ。進まない波は波ではない。黄色い砂浜の岸辺はもう目前。
波は言う。「殺さない。この世は帰るためにある。」
目を開けるとそこはいつもと同じ列車の終点にあたる駅のホーム。暑苦しいほどにビルが立ち並び恐ろしくと思うが少し期待を孕ませてしまう都市。しかし人は息が詰まるほど多い。その中を私は歩く。先ほどまでいた隊列と変わらないような気がするが。向かうべきところがある。ような気がする。
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