批評用語の持つあやうさについて(後半)【再録・青磁社週刊時評第九十五回2010.5.24.】

批評用語の持つあやうさについて(前半)   川本千栄

 また、坂井修一の歌集の後書きにある「もし世界が三人の勝ち組と九百九十七人の負け組に分かれたら」という喩えに関して話しているとき、坂井が自分はそうなったら歌を作れないと言った事を受けて、斉藤
  
斉藤 まあわたしは九百九十七側なんですけど。でも九百九十七と三が本当に切れちゃったらまずいよというのがすごくある。だから、正直、密輸しているわけですよね。密輸というか、どれだけフラットになっても完全に真っ平らになることは生きている限りないと思って、(…)

 と発言している。私には「密輸」という言葉で斉藤が言おうとしていることが取り難かったのだが、坂井は少し後で「密輸なんて言葉、なかなか面白い」と反応している。ここでもやはり、「うまい事言ったな」的な空気を感じとってしまうのは気にし過ぎだろうか。
 批評用語が時代や現象をどれほどうまく切り取っているように見えても、それで歌の価値が決まるわけではない。「棒立ちの歌」や「武装解除」と話題にされた歌に対して、大辻が言ったように「何かわかったような気分」になっていないかどうかをきちんと考えるべきだろう。
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 2008年6月から担当してきた青磁社の週刊時評も今回で私の回は最後となった。始める前は「三週間に一度なんて書くことがあるだろうか」と漠然とした不安感を抱いていたのだが、いざ蓋を開けてみると、取り上げたい論題が無くて困ったことはほとんどなく、毎回自分の問題意識に触れることについて書いていくことが出来た。むしろ、今回で最終回ということになると、自分は果たして、現状に対して問題だと思っている事を書き尽くせたのかどうか心配になるぐらいだ。
 二年間、この場を与えてくださった青磁社に、一緒に書き続けてきた広坂早苗さん、松村由利子さんに、何よりも読んで下さった皆様に、深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

(了 第九十五回2010年5月24日分)

【再録・青磁社週刊時評】は今回で終了します。ありがとうございました。

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