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『短歌研究』2025年1+2月号

人形師が塗りてつめたき顔に継ぎ菊師はひろぐ菊のからだを 米川千嘉子 菊人形の顔と胴体は別の職人が作るのだ。生命の無い、冷たい顔に継いで、生きた花で身体を作る。「菊のからだ」という把握と、それを「ひろぐ」という動詞で表現したところがいいと思った。

波打ち際のように目覚める平凡な手足わたしの末端に咲く 東直子 二句切れ、終止形と取った。波に打ち上げられたように寄る辺ない思いで目覚める。自分の身体の末端に自分の手と足が付いている事が意識される。それを「咲く」と表現することで不随意感が伝わる。

だめになりながらわたしの裏庭へゆく虎耳草ばかり咲かせて 内山晶太 だめになるのはメンタルだろうか。裏庭は実景と取っても、心の裏側の部分と取ってもいいと思った。咲いているのは地味なユキノシタ。地味で花びらに不完全感があり、それが愛らしくもある。「咲かせて」は願望ではなく使役と取った。主体が咲かせなくても勝手に咲く花なので、そこが却って強く響く。
 だめになり/ながらわたしの/裏庭へ/ゆく虎耳草/ばかり咲かせて
全句、句跨り。リズムが面白い。

行かねば 一度も引き留められぬとは二度と引き留められぬということ 立花開 初句四音の欠落感が一首全体に及んでいる。「一度も」と「二度と」は音感的には対句のようだが、意味的にはずれている。言いたいのは「引き留めてもらえなかった」ということだ。

紙のように顔が破れた 婚姻は一人じゃできないと気付く夜更けに 立花開 初句二句の比喩が痛ましい。三句以降は、二人の意志が合わないところに婚姻は成立しない、という理屈なのだが、自分の中にそれを落とし込む時に、顔が、心が、破れてしまうのだ。

乾かないうちに重ねていく青の だめ、生き方を混ぜ合わせては 山本夏子 まだ乾かない絵の具に、上塗りをしようとしている。絵の具はいいけれど、生き方は混ぜ合わせられない。下句、突然の強い否定に歌一首が震撼し、上句が序詞のように見えてくる。

失くしてきたのは失くしてもいいものばかり 真冬の朝の淡さの、虹の 山本夏子 初句八音で畳みかけるような上句に共感を覚える。下句の「の」で繋がれたものたち。並列部分に読点を打っているが、耳で聞くだけなら柔らかく、全て並列にも聞こえるだろう。

車酔いするなら連れて行けないな女川原子力PRセンター 逢坂みずき 車で急カーブを多く回らないと着かないところだからだろう。PRしたいからではなく、実態を友に知ってほしいという気持ちから行きたいのだ。一連全体が具体を描き出しており、とても惹かれた。

聖護院紅芯(こうしん)源助大根らコルレオーネ家のように揃いぬ 滝本賢太郎 店先に様々な種類の大根が並んでいる。そこで突然、作中主体の脳内に流れる「ゴッドファーザー」のテーマ曲。素朴な野菜たちが突然陰気な顔のマフィアのファミリーに。比喩が愉快。

⑩浦川通×睦月都×大塚凱「AIとヒトはなぜ歌を詠むのか」
 睦月〈AIが連作を作ることは可能だと思います。一番の問題は、私たち歌人自身が連作の良さとは何か、ということを言語化できていない点です。現時点で、これは良い連作だとAIに教えるデータがありません。〉
 これはとても興味深い。AIは人が作って人が動かしているわけだが、歌人自身が連作の良さを言語化できていないからAIに教えられない、というのは頷ける視点だと思う。続けて
 睦月〈私が考える連作の良さの一例としては、この一首の隣りにこの一首がある、その連続で、一首単位で読むだけではないシナジーが起きるということが良い連作だと思います。ただこれらは私の主観なので、データ的にもっと読み込ませたら違う視座が得られると思います。〉
 連作に対する睦月の考え方には同意だ。そして他のデータを読み込ませたら…という結果には興味が湧く。

⑪「AIとヒトはなぜ歌を詠むのか」
 AIの話にはなかなか興味が持てない私だが、この鼎談は面白かった。AIを通じて、人間の深いところに突っ込んでいる研究に触れられたからだろう。  他のパネラーの興味を惹かれた発言も引いておきたい。
 浦川通〈(統計数理研究所の)持橋さん、見てくださっているんですね。「多次元項目反応理論による短歌の評価の分析」ですね。短歌の実作者に作品として「良い」「悪い」、「好き」「嫌い」をテストさせて、そこに潜在的にどういう性質があるかを統計的に見たものです。〉
 そんなことまで統計で分析できるんだ。
大塚凱〈詩歌に意識的に触れている人口に対して、詩歌の作品数が多すぎると思うんです。それはなぜなのかとよく考えるんです。〉
 本当に。なぜ?    
 鼎談タイトルから小説タイトル『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を連想してしまった。

尻擦りて畳の泥を掻く老いが頑張ると言ふ言葉のむごし 永井正子 能登の特集より。老いた被災者の「頑張る」に主体はむごさを感じている。本当はもっと援助があるべきなのに個人の頑張りに丸投げされているのではないか。上句の具体が事態の重さを描く。

走るテレビを押さへることしか出来なくてあの時何を見てゐたのだらう 島田鎮子 「走るテレビ」という表現に状況が眼前する。何かがそのテレビに放送され映っていた、という現実。それは何の悩みも無いような、お気楽な正月番組だったのかもしれない。

2025.1.25.~28. Twitterより編集再掲

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