石井千湖『文豪たちの友情』(新潮文庫)
近代文学の文豪たちの交友を浮かびあがらせた一冊。何となく薄々誰と誰が仲がいいとか知っていても、こうしてまとめて読むと圧巻だ。
「佐藤春夫と堀口大學」「室生犀星と萩原朔太郎」「志賀直哉と武者小路実篤」「川端康成と横光利一」「正岡子規と夏目漱石」「石川啄木と金田一京助」「国木田独歩と田山花袋」「芥川龍之介と菊池寛」「太宰治と坂口安吾」「梶井基次郎と三好達治」「泉鏡花と徳田秋聲」「中原中也と小林秀雄」「谷崎潤一郎と佐藤春夫」…豪華絢爛なメンバーの交友録だ。彼らの距離の近さと、有名人同士の密度の高さが驚きだ。多くは一高東大をはじめとする大学での出会いだ。如何に近代文学において旧制高校と大学が大きな役割を果たしていたかが分かる。
女性作家がほぼゼロ。宇野千代の名前がかすかに出てくるぐらいなのが寂しいが、これが現実なのかも知れない。
巻末の出典一覧が壮観で、この一冊が単なるミーハー気質で書かれたものではないことを証明してくれている。文体も平易で読みやすく、過不足の無い表現だ。そこはかとないユーモアも感じられる、良質な文章だ。
〈(大逆事件で)刑死した十二名のなかに、新宮の文化サロンの中心人物で、春夫の父とも親しかった医師・大石誠之助がいた。春夫は『スバル』に「愚者の死」を発表する。悲痛な想いを反語で表現した詩だ。同じ号の『スバル』に、堀口の詩も掲載された。荷風はそれを読んでいたのだろう。二人に声をかけて自らが編集主幹をつとめる『三田文学』に作品を書かせた。「佐藤春夫と堀口大學」
この大石誠之助に対する反語的な詩というのは同じように与謝野鉄幹も書いている。こちらの方が有名なように思うのは、私が短歌関連の本ばかり読んでいるからか。堀口大學の洋行出発には与謝野夫妻も見送りに来たという。人間関係の密さが分かる。
〈当時の朔太郎は、いくつかの学校を中退し、東京でマンドリンの演奏を学び、音楽家を目指すも挫折。職には就かず、前橋の実家で小説や詩を読み、白秋に傾倒していた。〉「室生犀星と萩原朔太郎」
モボ風の服装をして、マンドリンを抱えた朔太郎の写真を見たことがあるが、単に流行りの楽器を遊びで弾いている、あるいは写真に映る時の一種のアクセサリーかと思っていたのに、そんなに真剣にマンドリンをやろうとしていたとは。とは言え、裕福な家のダメなぼんぼんであることはこの一文だけからでも伝わってくる。
〈犀星と芥川(龍之介)と堀(辰雄)が軽井沢で夏を過ごしているときに、朔太郎が美人の妹を連れて合流したことがあった。〉
濃過ぎる。五人中四人が近代文学史に名を残す文豪。残りの一人は文豪の美貌の妹。お互いの友情への嫉妬も相まった何とも言えない雰囲気が描かれる。
〈晩年は(武者小路実篤、志賀直哉)二人とものんびり暮らしていたようだ。一九六七(昭和四十二)年の「親友交歓」という対談を読むと、テレビの話や昔話を楽しそうに語りあう、ただのおじいちゃんで文豪感はまるでない。〉「武者小路実篤と志賀直哉」
文化勲章をもらい、家も建て、悠々自適の老後になれば、昔話に興じるただの老人になってしまった…という晩年は、夭折者も多かった近代文学の文豪の老後としては若干興醒めだ。だが現実はこんなものではないか。
〈一九〇〇(明治三十三)年、漱石は文部省に命じられ、英語研究のためにイギリスへ留学。彼はロンドンで見聞きした物事を子規に手紙で報告する。子規がそのころ提唱した「写生文」に触発されたのだろうか。朝起きて身支度を整えて朝食をとる、みたいな日常的なことが、ものすごく細かく描写されている。一連の文章は「倫敦消息」として『ホトトギス』にも掲載された。〉「正岡子規と夏目漱石」
これはぜひ読んでみたい。子規の写生文を実地に行った漱石の文章が、後の彼の小説の土台となったのかも知れない。
〈六月に病院を退院し、七月に千葉県の船橋に転居。「逆行」が第一回芥川賞候補になるが、受賞はならず。太宰(治)は芥川賞に執着するようになる。八月には山岸(外史/がいし)と一緒に佐藤春夫の家を訪ねる。春夫は芥川賞の銓衡(せんこう)委員であり、井伏(鱒二)と檀(一雄)の師でもあった。〉「太宰治と坂口安吾」
ここも濃い。私は山岸外史の名前を知らなかったが、当時の新進気鋭の文芸評論家。『人間太宰治』という著書もある。
〈(太宰と檀)二人の借金は井伏だけでは返せず、井伏に頼まれた佐藤春夫も立て替えた。春夫も手持ちの金では足りなかったので、近所に住んでいた三好達治に借りたという話もある。〉
どうにもこうにも。文豪たちのエピソードで何だかなと思うものが幾つもあるが、太宰治のそれは群を抜いてクズっぽい。それが彼の売りでもあるわけだが。これに続く部分は、
〈後年「走れメロス」を読んだ檀は、この熱海の事件が作品の発端になったのではないかと考えたという。〉
熱海の温泉宿で宿代を使い果たして檀と遊び惚けた挙句、借金を払うべく、友達の檀を人質に残して金を取りに東京に戻った太宰はそのまま帰らず、追いかけてきた檀は激怒し、最後は先輩・師匠格の文学者が借金の尻拭いをして云々、というレベルの低い話を「走れメロス」という高潔な友情話に仕立てあげる。これが文学者の業というものか。多くの人が何となく持っている「現実生活不適合者=小説家」という認識は太宰に因るものが大きいのではないか。
檀一雄の『小説太宰治』から引かれていた味の素のエピソードも面白かった。
〈誰かを傷つけ、自分も傷つけられる。ケンカのエピソードを読むと、当たり前だけれど、文豪も人間なのだと思う。〉「コラム 文壇ケンカ事件簿」
と言うか、たいていの一般人はこんなケンカはしないように思う。文学者だからこそ、業として他人を傷つけ自分も傷つけられるのではないか。
〈ダダイズムにかぶれた医者のドラ息子と、志賀直哉に私淑する秀才。年齢も出身地も家庭環境も全然違う二人が接点を持つまでには、もう少し時間がかかる。〉「中原中也と小林秀雄」
この二人も相当ヤバい。
〈二人はたちまち意気投合して、中也は小林にお金を借りたりもしているのだけれど、関係が拗れる前兆は初対面の日からあった。大岡昇平によれば当時、長谷川泰子のもとに小林はこんな手記の断片を残したという。〉
この三角関係は有名だが、それを記述していたのが大岡昇平だとは知らなかった。
また長谷川泰子は葉山三千子(谷崎潤一郎『痴人の愛』ナオミのモデル。本名せい子)と交友があったらしい。
〈長男の文也が生まれてまもなく、中也は檀一雄の家で太宰治と居合わせた。一緒に来た草野心平も交えて四人で酒を飲んだときに、中也は太宰にしつこくからんだという。〉
この辺りも全員有名な文学者。どうしてこんなに密なのか。
太宰治は佐藤春夫にも憎悪されているし、よほど嫌な、かつ魅力的な人物だったのだろう。
中原中也の『ゆきてかへらぬ』『わが生活』、小林秀雄『中原中也の思い出』、大岡昇平の『中原中也』、長谷川泰子『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』など読んでみたいと思った。
〈芥川龍之介は晩年、佐藤春夫と会ったときに、
「君と僕を近づかせなかつたものは、君と谷崎との友情だよ。僕は嫉妬を懐いてゐたんだね」
と言ったという。(…)
〈共通の友人である芥川が嫉妬するほど、二人は気のおけない関係だった。それゆえに日本文壇史に残る「事件」を起こした。〉「谷崎潤一郎と佐藤春夫」
どうも日本文壇史にはその手の事件が多い気もするが。
〈自分の好みに合わない千代を疎んじていた谷崎は、千代の妹のせい子(『痴人の愛』のナオミのモデル)を密かに愛人にしていた。春夫は同棲していた米谷(まいや)香代子の過ちを知って思い悩んでいた。しかも彼女の浮気相手は、春夫の弟だったのだ。〉
この辺りでもう充分事件。
〈香代子と別れ、谷崎の許しも得て、春夫は千代に思いを打ち明ける。千代も彼の気持ちを受け入れた。ところが、結婚するつもりだったせい子にフラれた谷崎は、千代との離婚話をなかったことにしてしまう。〉
〈ここまで拗れたら、関係の修復は難しい。一九二一(大正十)年の半ばに、二人は絶交した。いわゆる「小田原事件」である。
小田原事件が単なる文壇ゴシップで終わらなかったのは、春夫が詩や小説を書くことによって悲しみを昇華しようとしたからだ。(…)
谷崎も『神と人との間』という小説を書いた。春夫の詩から着想したと思われる結末が衝撃的な作品だ。〉
いくつ事件を起こしても、それを「昇華」して作品にする。それが世間が文学者の「事件」に甘い理由だろう。文学ははっきりそういう面があるのだということは認めざるを得ない。その「事件」に巻き込まれた者がどれほど傷ついたとしてもだ。
〈そのころ春夫は小田中タミと結婚していたが、近所に出没する「魔女」山脇雪子に魅入られていた。夫の浮気によってノイローゼになった妻は、かつて自分と同じような境遇にあった千代に会いたがった。春夫は関東大震災のあと関西に移住した谷崎と約五年ぶりに会う。(…)
それから親しい友人に戻った二人は、芥川龍之介が亡くなるという悲しい出来事を経て、また別の絆で結ばれる。一九三〇(昭和五)年六月、春夫がタミと離婚したので、谷崎はついに千代を春夫に譲ることにしたのだ。〉
世間を騒がせた「細君譲渡事件」。昔テレビドラマにもなっていた。
〈(谷崎は「小田原事件」を振り返って)「(…)文学に関係のない、堅儀な、平和な家庭人からみれば、まさにその通りの感じがしたことであらう。実際われわれは、いつの間にか事実を小説的に見る癖がついてゐたかも知れない(…)」
と告白している。春夫の発言をノートに書き留めたりもしていたらしい。春夫もこの件に関しては同時進行で手記を書いていたというから、小説家とはなんと業の深いものかと思う。二人とも激情にかられながら、作品にすることをどこかで意識していたのだ。巻き込まれた女性たちは大迷惑である。〉
特に、谷崎の、事実を小説的に見る癖、というところに絶望的だがどうしようもない業を感じる。
〈私からすると、谷崎と佐藤が仲良くしていたなんて、不思議な感じがするんです。佐藤から谷崎の話は一切聞いたことがないんですよ。祖母は谷崎を「潤ちゃん」と呼んで、妹のせい子さんと一緒に、悪口を言って盛り上がっていましたけどね。(笑)〉「コラム 孫が語る谷崎潤一郎と佐藤春夫」
姉は正妻で「細君譲渡事件」のヒロイン、妹は愛人で『痴人の愛』のモデル。この姉妹が晩年、谷崎の悪口で盛り上がる…!(しかも登場しないが、長姉が谷崎の最初の思い人。)案外、女たちはたくましかったのかも知れない。
〈しかし、教師の仕事も漱石の心に打撃を与えた。東京帝大では前任者の小泉八雲に心酔する学生が漱石を歓迎しなかった。一高では、英語を教えていた藤村操という学生が華厳滝へ身を投げて自殺。自殺の動機は失恋と言われていたが、漱石は藤村の受講態度の不真面目さを叱ったことがあった。「夏目漱石と門下生たち」
『坊ちゃん』にあるように漱石が教師の仕事にうんざりしていたことは間違いない。この本によると漱石は神経衰弱ではなく鬱病とのことだ。小説家は天職であったのだろう。
〈菊池寛が一九二三(大正十二)年一月に創刊した月刊誌『文藝春秋」は、作家をキャラクター化した媒体の先駆けだ。〉「コラム 文豪キャラクター化の先駆け」
〈突出した能力があれば問題のある人物でも受け入れ、のびのびと仕事をさせる。菊池の度量の広さが『文藝春秋』の成功につながったのだろう。〉
〈若いころ経済的に苦労した菊池寛は、雑誌で食べていけるようにさまざまな創意工夫をした。まずは座談会の創始。それまでも創作の合評会はあったが、各分野の権威を集めて意見や思想を短時間のうちに発表してもらう座談会は『文藝春秋』が始めたのだという。作家の講演会も日本各地で開催した。巻末に「社中日記」欄を作り、社員の日常雑記も読物にした。(…)そして早逝したふたりの友人ー芥川龍之介と直木三十五の功績をたたえ、次世代の作家を世に送り出す文学賞を創設した。〉
高等教育を受けながら職が得られなかった女性たちに口述筆記や翻訳の仕事を与えた。相当進んだ考え方の人物だ。
現在の雑誌(それに準じて短歌結社誌)の在り方を作ったのは菊池寛だと言えるだろう。
新潮文庫 2021.9. 590円(税別) (単行本は2018.4.立東社より)