短歌におけるオノマトペ(前半)【再録・青磁社週刊時評第五十四回2009.7.13.】
短歌におけるオノマトペ(前半) 川本千栄
(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
「短歌研究」7月号の特集はオノマトペであった。また「短歌現代」7月号にも「オノマトペの魅力」という特集があった。今回、特に面白かったのは、「短歌研究」の特集の最初に置かれていた特別対談、山口仲美vs小池光「日本人はオノマトペがすき?」であった。小池は同誌に2007年から「短歌を考える」という連載をしているが、その直近5回分が「オノマトペ考」であったことを受けての対談であると思われる。山口仲美は国語学者であり、明治大学教授。著書『犬は「びよ」と鳴いていた』『日本語の歴史』などは短歌を考える上でも大変参考になるし、何より読みやすく、面白い。
一読して驚くのは山口が古典和歌のみならず現代短歌にも大変詳しく、また読みの精度も相当なものだということである。対する小池は自身の文章に書いたオノマトペに対する論考が学術的に間違っている事を山口から幾つか指摘され、甚だ苦しい立場に置かれていた。例えば小池は日本語のオノマトペの代表格として「ABAB型」と「AッBリ型」を挙げているが、山口に言わせると、「ABAB型」は間違い無く多いが、「AッBリ」型はそれほど多くないということだ。それを指摘された小池は「わかりました(笑)。専門家ではない気安さで何となく感覚的な印象で書いてしまったんですけれども。」と応じている。
こうしたやりとりが幾つもあり、改めて小池の連載を読み直して見ると、「~と考えていいとおもう」「~なのだろう」「~とは思われぬ」「~とは感じられない」という語尾で自らの主張を表している部分が多く、元々個人的感覚で書かれていたことが分かる。やはり、オノマトペの起源や使用される頻度など、史料から考察していくべき論を感覚に頼って書くと、どうしても説得力が弱くなる。
これは別に小池を非難しているわけではない。短歌の読みは個人的感覚を駆使して深めていくところがあるので、歌人が感覚に依存した論を書くのは、短歌の生理上当然と言えば当然だ。また、それが優れた洞察に繋がることもある。例えば小池は「短歌を考える」の連載第一回で、日本語の音それぞれが持つ質感を音楽の絶対音感に例えて説明していたが、それはかなり当を得ていたようだ。それこそ個人の体感に依拠した話のようだが、山口も「日本語の音そのものがある一定の感覚を持っている、意味を持っているということですよね。」と音と絵の連関に関する実験を紹介しながら言っているように、小池の推理は、音韻の持つ根源的な意味に触れていたようだ。
(続く)