河野裕子『紅』(13)
あなたとふ野花のやうな語二度ばかり彼との電話はいつも簡潔 夫との電話だろう。用件のみの簡潔な電話の中で「あなた」という語が二度ほど言われ、それが野の花のように感じられる。夫婦のさりげなく暖かい愛情が、お互いの声の間を行き来する。
わが頸に触れてゐる手よこの指のさやりのぬくとさ馴じみ来しもの 相手の手が自分の頸に触れている。その感触のぬくもりはずっと今まで馴染んできたものだ。短歌とは何かが分かる歌。散文で内容だけ言ったら良さが伝わらない。四句の言葉選びが文語体ならではの簡潔さ。
ゆふかげに髪響かせて梳きをりつ傍へに吾子は数学を解く 夕方の光の中で髪を梳いている。その傍で子が数学を解いている。「髪響かせて」が独特の表現だ。言われてみれば髪を梳くときには微かな音がする。子が字を書くときの微かな鉛筆の音もしているのだろう。
うす青きはうがんしのうへに透明な三角定規ありて子の部屋は留守 傍で数学を解いていた子がそれを部屋に持ち帰り、どこかへ遊びにでも行ったのだろう。5・9・5・10・7。結構破調。四句までの観察眼が細かい。「透明な」が一首を統べていて、静謐な印象もある。
幾つになっても癒えぬ寂しさこのままに老婆になつてしまふのだらうか 一連からは夫や子を大切にし、小動物に優しい視線を向ける主体が想像できるために、この歌の「寂しさ」という主観にどきりとする。この寂しさのままに老いるのかという不安は、万人のものでもある。
山の間(ま)の駅の柱にふと見えし箱型の古時計時へて思ふ 昔、山間の駅でふと見た時計を後になって思い出す。記憶の不思議さと、その何でもない記憶を愛おしむ気持ちが、歌から滲む。四句10音で重いのだが、その訥々とした言い方から時計の映像も浮かんでくる。
2023.10.4.~5. Twitterより編集再掲