『うた新聞』2023年4月号
①長生きは世の迷惑と言はれても生きてゐたいね、からすのゑんどう 高野公彦 初句二句のような言葉が年配者の耳に聞こえることがあるのだろうか。そう言われても生きている限りは生きていたい。迷惑な雑草かもしれないからすのえんどうにそっと同意を求めている。
②大辻隆弘「ゐたり」「つつあり」
〈現在、目の前で進行してゆく事態をどう捉えるべきなのか。現在進行形という西欧語伝来の時制表現を、従来の文語体系のなかでどう表現したらいいのか。圧倒的な西欧語の流入に際会して、近代の歌人たちは、そのような悩みのなかにいたのだろう。〉
このあたり、もうちょっと詳しく聞きたいところ。英語の現在進行形を表すために、近代に作られた文語、という解釈が気になる。本当に英語の時制を表すために語句が作られたのだろうか。そうだという例証が欲しい。そうであるなら英語の訳語にも何らかの影響を与えている可能性は無いのかな。当時英語に触れていた人々は人口の中で圧倒的に少数であったと思うだけに、その人々が作った語句が流布するものなのかというのも興味があるところだ。
③松澤俊二「短歌(ほぼ)100年前」〈近代の短歌が持った社会的な広がりと、それが人々の暮らしや心のなかにどのように浸透し、如何なる位置を占めていたかという奥行きを、なるべく確実に記し留めること。(…)本連載では今から100年前、だいたい大正期から昭和初期までの歌書・歌集を取り上げて上記テーマに迫りたい。〉
『「よむ」ことの近代』の著者・松澤俊二の新連載が始まった。今回は『短歌日記(大正四年度使用)』が取り上げられている。目の付け所がやはり全然違う・・・!次回からも期待大だ。
④松澤俊二〈ところで、近代の短歌を自己表現の文学と考えることは現代の定説である。だが、窪田空穂が〈「自我の詩」といふことは、極めて新しく、尊げに、それ故に限りなき魅力のあるものであつたが、しかしたやすくは信じ切れない程のもの〉と、1900年前後期を回想して言うように、その理解ははじめから「定説」ではなかった。それを、歌人たちが無数の実作や評論を積み重ねて、大方の共通理解へと変えていった。〉
今回取り上げられた『短歌日記』もその実践の一つだったという。短歌というものの在り方の変わり目を鋭く捉えている文だ。
⑤嶋稟太郎「川本千栄『キマイラ文語』書評」
〈口語化の歴史を語りながら、ニューウェーブ世代の革新的な点、そして時代の終焉をひとりの著者の視点から見渡した本書はニューウェーブ以降の短歌に関わる人にとって必読に一冊に思う。〉
とてもうれしい評に感謝します。
2023.4.21.~22. Twitterより編集再掲