短歌史に関わるということ(後半)【再録・青磁社週刊時評第七回2008.7.28.】
短歌史に関わるということ(後半) 川本千栄
石川が言うように、彼女たちの世代をポスト・ニューウェーブと言えるかどうかは疑問だ。前衛短歌やニューウェーブは既成の短歌に対して新しい短歌を目指す意識的な運動であったが、今の若い世代がそうした意識的な運動をしているという印象はあまり感じない。ただ「ニューウェーブの影響を受けた、同じような世代の人々」ぐらいのゆるいくくりで彼らをそう呼ぶのなら使えるだろうが、何か統一した運動があるという誤解をまねくようであれば、そうした呼称は避けた方が無難かもしれない。
ある短歌史上の大きなうねりを総括するのに、当事者で無い方がよいと私が思うのは、やはり当事者の目には短歌史の流れというのは多角的には見えにくいだろうと思うからである。その一例として、この座談会の冒頭ページに司会の加藤がまとめた「平成二十年間の短歌界メモ」が年表の形で載っているのだが、大物歌人の没と「アララギ」の終刊、そして二十世紀末に刊行された二つの辞典(事典)の刊行以外は、ほとんどがニューウェーブがらみの記述になっている。これに良し悪しをいうつもりはないが、ニューウェーブの中心人物の一人であった加藤治郎の目にはこの二十年間はこんな風に見えているのかと思うと、非常に考えさせられる。
三枝昂之の『昭和短歌の精神史』を読んだ時にも感じたことなのだが、歴史をまとめるには、ある程度、時間が出来事を洗う間が必要なのだと思う。それによって、大きなうねりと見えたことが次第に相対化され、冷静な考察が可能になるのだ。反対に、当事者が性急に自分の存在を短歌史に結び付けようとすると、多角的な視点を持ち得ないだろうと危惧するのである。そういう意味で奥田には時間をかけて前衛短歌について考察して欲しいと思うし、石川やさらにもっと直接的影響の少ない者にはニューウェーブをじっくり検証してほしい。その過程で、現在の若い世代がどのようなものを踏まえているかが明確になってくるだろう。
司会の加藤に「短歌史は関係ねえという立場」と言われていた吉岡太朗だが、彼の短歌史に関する考え方は、私には至極納得のいくものであった。
吉岡 …べつに短歌を勉強しないって話ではまるでなくて、要するに短歌史というもので短歌を見ないというつもりなんです。既に整えられたコスモスではなくて、カオスなものとしてこれまでの何かというものを読んで、その中で自分にとっての短歌というものを作り出していけたら…
前衛短歌一つとっても、まだその総体をつかみきれていない。短歌史はまだまだカオスの状態なのだ。お墨付きの短歌史を早々にまとめるのではなく、様々な立場から検証を続けていくのが短歌に関わる者の責任ではないかと思った。
了(第七回2008年7月28日分)