『短歌研究』2020年9月号
①母親に虐殺されし厄介者のいとけなき児らよ贖はれぬ魂魄(たま)よ 島田修三 この歌には引っかかる。母親が殺したのだとしても、そこに父親の育児への関与、もしくは不関与があるはずだ。一人で妊娠したわけでもあるまい。
そしてそういう殺人が多く起こる社会を構成する一員としての自分、という感覚も要るのでは。この歌は全く自分から遠いものとして詠っているように感じた。
②この町に生まれていたら通ってた小学校から飛び出すボール 平出奔 「Victim」一連の魅力はパラレルワールド感だと思う。もしかしたらあったかも知れない過去、あるいは現在が実は存在していて、ふっとした拍子に乗り換えられそうな、そんな感覚が一連全体を貫いていると思った。
栗木京子〈現実が、もう一つの選ばれなかった事実の残り物であるような捉え方〉〈あり得たかもしれない日常と並行して進んでゆく現実〉栗木の選評が一番私の感想に近いかなと思った。だからコロナは今回たまたまの主題で、どんな状況でも歌にできる作者なんじゃないかと思う。
國兼秀二〈日常的な、無意識の選択の先には、人生を変えてしまうことが起きるかもしれない(…)いまここにいる自分の後ろには、選択しなかった自分の無限のパラレルワールドがある〉何と!編集長の編集後記が全く同感と言える意見だった。選考委員の意見よりずっと私の感覚にフィットした。
③短歌研究新人賞受賞のことば 平出奔〈短歌を始めたばかりの頃から発表の場があったということ、交流してくださる方がいたことは、本当に意味の大きなことだった〉改めまして、受賞おめでとうございます。発表の場がある、ということはネットの発達から歌人が受けた大きな利点だと思う。
90年代に一人で短歌を始めた時は「新聞歌壇」と「NHK短歌」に投稿する以外、日本で短歌を発表する場は無い、そこに投稿してる人だけが短歌を作ってるんだと思ってた。短歌結社の存在も知らなかった。今でも一般的な生活者にはそんな情報届かない。あの頃の人はどうやって短歌にアクセスしてたのかな。
④鳴り止んだことで鳴ってたことを知るなんの音だかわからない音 湧田悠 日常生活でよく思い当たる場面だ。言葉の繰り返しで巧みに情景を切り取っていると思う。現代生活では無音の状況ってほぼ無い。いつも何らかの電子音に囲まれているのに、それを無音のように思っているのだ。
⑤時あけて僕の方から話すときことばは伊集(いじゅ)の花へと向かう 山尾閑 とても惹かれた一連。植物の密度が濃い。清々しい光の中や、夜の闇の中で、花や樹木の気配が伝わってくるような一連だ。植物の生に自らの生を託しているような印象を受けた。30首全部読みたい。
⑥渡辺幸一〈一度レールを踏み外したら、元に戻れないという生きづらい社会が、多くの人たちの未来を奪っている現実に行政も産業界も気づくべきである〉日本社会を外から見る視点は貴重だ。今回はギャップ・イヤーの制度、コックス議員とメイ首相の孤独問題への取り組みを知った。
⑦松村由利子「ジャーナリスト与謝野晶子」〈この文章は「現代人らしく」と題して一九一四年に書かれた。晶子は「今の女に望むことは『女らしく』でなくて、男にも女にも共通な『現代人らしく』ということである」と述べている。〉晶子、百年進んでる。私より進んでる・・・と思う。
〈「数学や物理化学の方面」に興味を抱いていたのは、晶子自身である。幼いころから算術、数学を得意としていた。〉〈自分は文学には「不適当」ー適さなかった、不向きだったと顧みていることに驚く。〉本当に驚く。与謝野晶子は、リケジョだったのですね。
⑧佐佐木定綱「短歌時評」〈五十代以上の歌人の歌集が秀歌集として選ばれている。十冊あってすべて五十代以上。(…)驚きの結果でもある。(…)アンケートの回答者もベテランが多そうな印象を受ける。回答者の年代別などで分けたらかなり違った秀歌集ラインナップになるのでは〉
佐佐木の「驚き」は幅広い世代の歌集が選ばれていない、ということだろう。今回の秀歌集は年配の回答者が同世代の歌集を多く挙げたことが原因だ。しかし佐佐木が言うように回答者を年代別で分けても問題点は同じところに残る。同世代の歌集を選んだものが世代ごとに並ぶということになりかねない。
〈自分の基準が極めて狭い認識に規定されていないかを繰り返し問い続ける必要はあると思う。〉佐佐木の意見に賛成だが、なかなか実現が難しいことではある。世代的共感が基準の核にあることを、自己認識できないケースもあるだろう。もちろん、他の基準でも選んでいるわけだから、識別しづらいが。
2020.9.11.~15.Twitter より編集再掲