日本文学が亡びるとき―未来ではなく現在の問題として(後半)【再録・青磁社週刊時評第二十五回2008.12.1.】

日本文学が亡びるとき―未来ではなく現在の問題として(後半) 川本千栄

 さらに、論全体を通して彼女の主張の根底には以下のような感情が流れている。

(…)実際、今、本屋に入り、そこに並んでいる本を目にし、「文学の終わり」を身をもって感ぜずにいることはむずかしい。それでいて、広い意味での文学が終わることはありえない。(…)

 乱暴にまとめれば、近代文学はいいが現代文学は全然ダメだということだ。仮にそうだとして、では近代から現代に至る過程で、文学が衰退した原因は何か。水村は、科学の急速な進歩・〈文化商品〉の多様化・大衆消費社会の実現、の三つをまず原因として挙げ、見開き3ページほどでざっと説明する。そして真の要因として、「英語の世紀に入ったこと」を挙げて詳細に説明するのだが、それは全て今後の予想でしかない。今、なぜ現代文学が衰退しているのか、という説明にはなり得ていない。
 もう一つの問題は、近代文学と現代文学の境目はどこかという問題である。この本の中でははっきり線引きされておらず、大雑把に二葉亭四迷から百年が読むべき近代文学とされている。「浮雲」の第一篇が出たのが1887年であるから、1987年以降あたりの作品に水村は「文学の終わり」を感じているらしい。しかしそれでも甚だ曖昧である。「ひたすら幼稚な風景」とは、今本屋に並んでいる本とは、何だろう。最近流行のケータイ小説か、村上春樹吉本ばなななども入るのか、あるいは大江健三郎も入ってしまうのか。さらにこれを短歌に当てはめると、それはケータイ短歌だろうか、穂村弘俵万智なども入るのか、さらに佐佐木幸綱岡井隆などはどうか。彼女が読むべき詩歌として例に挙げているのは、萩原朔太郎とだけである。
 しかし、彼女と同様に、どこかの時点で文学は変質してしまったと感じている人々がいる。例えば冒頭の岡井隆の発言である。岡井の言うように「あの短歌」が滅びたのだとして、この場合何が滅びたのだろうか。千年以上続いた「うた(和歌・短歌)」が滅びたのだろうか。それよりもむしろ川野里子が「近代文学の賞味期限切れ」といったように、明治以降、隆盛を極めた近代文学の内の近代短歌が滅びたと言いたいのではないだろうか。
 このような言説がいくつもある今、文学は変質したのか、そうならば、なぜ、いつ、どのように変質したのか、という事を考える時期に来ているのだと思う。「文学の終わり」に「幼稚な光景」が繰り広げられている、と見なす作者の著書がベストセラーになった。その「光景」には今現在の歌人たちも含まれている、という前提のもとに考えてみる必要がある。それには英語という仮想敵を一度廃して考えてこそ見えてくるものがあるだろう。

了(第二十五回2008年12月1日分)

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