二つの相互批評から見えてくるもの(後半)【再録・青磁社週刊時評第一回2008.6.16.】

二つの相互批評から見えてくるもの(後半) 川本千栄


    この記念号とほぼ同時期に、「未来」の加藤治郎選歌欄彗星集のメンバーが、年二回の歌誌「新彗星」を創刊した。「未来」は選歌欄ごとに大きく作風が違うので、「新彗星」の創刊は一つの新しいグループとしての言挙げだと言えるだろう。ニューウェーブの継承といった気持ちもあるのかもしれない。
  ここでも若手が相互批評の鼎談を行なっている。タイトルは「私たちの向かう場所」、出席者は栁澤美晴・野口あや子・笹井宏之である。

野口  栁澤さんの社会詠は、ときどき「歌のための社会」という感じがして疑問が残る歌もあります。
 サブウェイのサンドイッチの幾重もの霧に巻かれてロンドンは炎ゆ(「未来」二〇〇五年一月号)
 この歌なんかは、悲壮な社会からうますぎる修辞で逃げている、みたいな気がしますね。私はむき出し人間なので、想像力をかきたてられるよさ反面、社会を歌うことに苦しんでいるのか、責任が取れるのか、みたいに問い詰めたくもなります。(…)
笹井  逃げないで書いてしまうと、新聞歌壇でよくみかけるような歌になってしまうような…。だからおもいきり修辞を駆使して、このようにしか詠えない自分を押し出している、ある意味、むき出しの歌ではないかな、とも採れますが…。
野口  (…)「歌う自分」にむき出しであって、「生きる」にむき出しでない気がするんですよ。(…)自分の「発想」ではなく、身体、感情と絡めて歌うのも大事じゃないかと。それはそれで閉鎖的になってしまうことがあるということも自覚していますが。
栁澤  私の場合、修辞で完成度を挙げようという意識はなくて、これはむしろ自分なりの写実なんです。(…)ロンドン地下鉄テロに対する自分のイメージ映像を描写した感じで、「写実」って言うと意味が違って混乱させるかな。

 野口が、悲壮な社会からうますぎる修辞で逃げている、とする点と、笹井が、逃げないで書くとありがちな社会詠になる、と指摘する二つの点は、現在の歌壇の社会詠にも言えることである。一首の問題点を論じることによって、その問題が彼ら自身のものとして鮮明になっていく経過を見ることができた。また、野口の、身体・感情と絡めて歌うという方法、栁澤の、自分の中の像を捉えて描写しようとする方法は、作歌上、よく取り上げられてきたものである。が、自他の方法論を論じ合うことは、読者にとって非常に刺激的であったし、出席者自身にもそうだったのではないか。
 ただ、全体的に、歌の読みとしては淡いものが多い。「詩情のやわらかさ」「体温とか、かすかな息使いみたいなものは感じる」など印象は語られるのだが、語に即して読みを深めていける余地はまだかなりあると思う。
 偶然、結社の中の若い世代の座談会を続けて二つ読み、どちらも相互批評という趣旨だったことが大変興味深かった。得てしてわれわれは、短歌の新しい局面を一気に開いてくれるような評論を待望しがちである。しかし、歌を実際に一首一首読んで、読みを積み重ねていくことの方が、実は今、大切なのではないか。現在、短歌関係誌上には「読み」論はあっても、実際に歌を丁寧に読んで評したものは大変少ない。短歌に関わる者同士の、歌の評の共通言語化がもっとなされてもいいのではないか。今、歌の評が「バベルの塔」化している、という不安を、自分の中から少しでも取り除きたいと思うのである。
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 大辻隆弘・吉川宏志両氏の後を受けて、広坂早苗氏・松村由利子氏と共に本時評を担当することになりました。今後二年間どうぞよろしくお願いします。
了(第一回2008年6月16日分)

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