『現代短歌』2023年11月号
①いずれみなアクリルスタンドになってゆくんだ貴方の推しも貴方も 吉田恭大 フィギュアのような存在になるということか。切り方が分からないのだが、59567と読んでみた。四句が「ん」で始まることになるがそれが面白い。最近四句6音に私自身が慣れてきた感じ。
②高良真実「悲惨な景(K)伊舎堂の罠」
第4回BR賞ご受賞おめでとうございます!
〈伊舎堂はこの歌集に罠を仕掛けている。悲惨(ミゼラブル)なできごとでも、誰かが笑うならばその悲惨さは解除され、たちまち゛ネタ”として消費可能なものになるのだ。〉
〈殴られただけなら悲惨だが、笑いが生じるならば意味のあることになる。〉
お笑いの一つのパターンかもしれない。だが、笑うには結構キツイ話で、ネタというより後の方で出て来る「パッケージ化」の方が個人的にはしっくり来た。
③BR賞選考座談会「悲惨な景 伊舎堂の罠」について
江戸雪〈この筆者は現実の悲惨さを笑いに変えてしまうという、悲惨さを消費していくことが罪だっていうふうに言っている。〉
染野太朗〈消費するという観点から短歌を読むということについて述べている(…)〉
内山晶太〈私はむしろ逆で、コミュニケーションの取り方として非常に消極的な歌集だと読んだんですね。〉
加藤英彦〈たぶんこの批評者は逆説的な意味で言っているんだろうけど(…)〉
歌集を読んで考え、書評を読んで考え、座談会を読んで考えた。自分の考えが結構揺さぶられた。
④平出奔「効いてくる……と思う。」『感電しかけた話」書評
〈この社会に在る言葉、この社会で起きる出来事、そのいちいちを理解しながら、底のところでけして受け入れはせずに…進めていく。ということを私たちはたぶん全員生きていくにあたってやっていっている。数秒後には忘れているようなこと、は、書き留めているれば忘れにくくなる。〉
それがやがて効いてくる、というのが評者の主張。この歌集を読み解く大きなカギになると思った。また評者が平出奔だったことも意外。『感電しかけた話』と『了解』は長い詞書と言っていいのか、エッセイ、あるいは日記のような文章が歌集の中に置かれている、という構成が似ている。だが歌集の読後感はかなり違った。その違いをうまく言語化できなくてもやもやするが、平出の書評を読んで、違いよりも共通点が大きいのかな、と思ったりした。
⑤選考座談会「効いてくる……と思う。」について
内山晶太〈整理するために私がちょっと書いたメモですが、「言葉でもって、コミュニケーションの扉を遮断する時、遮断した扉の音同士が互いに交わることで発生するコミュニケーションが軸にある世界観」。(…)なんだかわからないしお互いが閉じているのにそこに発生するコミュニケーション、そういうものに対しておそらく「白い」っていう抽象的な言葉を当てているんじゃないかな。(…)そういう白い空白みたいなものが読んだ者の中には残っていくと。微差の世界のやわらかい殺伐さみたいなものだけが蓄積していく。〉
これはすごい面白い発言だった。ぜひ全文読んでほしい。この評のされた書評、及び書評された歌集だけでなく、現代短歌全体に通じるような評言だったのではないか。
⑥土井礼一郎「歌壇時評」
〈はたして、短歌を「われの文学」だといったり「私性」への視点から語ろうとするとき、私たちは主体の属性からさらに踏み込んだ本当の固有性を語りえていたのだろうか。〉
〈私性が弱まったといわれる今の二十代・三十代の歌や歌集にこそ複雑な手つきの内に属性の色のつかない生身の〈私〉が隠されているのではないか。〉
これはとても考えさせられる点だ。属性から完全に逃れることなどできるだろうか。属性の色のつかない生身の〈私〉を、自分は自分の中に見出せているだろうか、などと思った。
2023.10.26.~31. Twitterより編集再掲