池田渓『東大なんか入らなきゃよかった-誰も教えてくれなかった不都合な話』
東大卒の著者が、東大に入ったことによって「不都合な」体験をした人々を語る。もちろん、著者もその一人という設定だ。
〈あらゆる物事には、無駄として切り捨てたところに、得てして思わぬ価値があるものだ。先人に開拓され、多くの人が通りたがる最短ルートには、「新しいもの」は落ちていない。そもそも、横着者が浅薄な知識にもとづいて切り捨てたのは、本当に無駄なものだったのかーー。〉
まず、東大生を天才型・秀才型・要領型の三つに分類して、その特徴を挙げている。ここに引いたのは最後の要領型の特徴だが、これは東大入試に限らず、あらゆる場面で言えることではないだろうか。
〈現在の日本のアカデミアの周囲に食い詰めた大学院生や博士が大量に漂流していることは、「高学歴ワーキングプア」という言葉とともに、すでに多くの人の知るところとなっている。(…)そもそも、重点化による大学院生や博士号取得者の急激な増加に対して、それらを受け入れる正規雇用のポストが圧倒的に足りないのだ。(…)優秀な人であってもびっくりするほど就職先がない。〉
これは『バッタを倒しにアフリカへ』を読んだ時にも気になった。日本の大学院はこのまま行けば滅びるんではないかと心配になる。何しろ最高の学歴を極めるより、そこそこの方が豊かな生活を送れるなら、誰がわざわざキツい方を選ぶだろう。
〈「博士になってよかった」「研究は楽しい」「生活に困ってはいない」なんてのは生存者バイアスのかかった言葉で、表に出ていないところには平凡な、または、運の無かった博士たちの屍(しかばね)が累々としていることに、博士課程への進学を希望する学生は思いを巡らせなくてはいけない。〉
生存者バイアス、成功者バイアスのかかった言葉をまともに受け取ってしまうと致命傷になる。「望めば夢は叶う」等、一時よく言われたが、それは叶った人が振り返って言うのだから。
〈東大にかぎらず、日本全国の大学で博士課程に進学する院生が減り、日本の研究者は減少している。2000年頃まで世界と同水準で数が増えていた日本の論文数や特許の出願数がここ20年でほとんど増えなくなったのは、この研究者数の減少をダイレクトに反映したものだ。〉
まあ、そうなるな。国家レベルでの知的衰退。「大学院重点化」が裏目に出たということだ。1990年代から「大学院重点化」が始まったことが紹介されているが、しかし80年代頃にはもう、院卒は大卒より就職しにくいと言われていたように思う。それなのに「大学院重点化」を進めるって何なんでしょうか。競争させたら実績がアップするという資本主義的考えは学問の世界とは相性が悪いように思う。学者が疲弊しては研究成果も出ないだろう。
東大、という日本の学歴の最高峰について誰もがチラ見してみたい気持ちを持っている。この本はその気持ちを巧みに突いてくる。東大卒者の対人関係能力の弱さなどを描き、東大に入れない人に、やっぱりね、と優越感を持たせるような書き方もしている。しかし、この本は基本的には、東大卒の著者が生き辛い東大卒者に向けて書いた、東大卒による東大卒のための本だ。そのため、私のようにそうじゃない読者には、所々、上から目線に思えるところもある。
〈「いざとなったら高校の先生になれると思うことで、今までやってこられたところはあります。」〉
〈キャリアパスが途切れてもいいではないか。東大に入るだけの能力があれば、今の仕事を辞めてもなんとかなる。〉
こういうところね。
あと、P66の「青山学院大学や明治大学、立命館大学、法政大学、中央大学」は、立命館大学→立教大学、の誤植ではないかな。
飛鳥新社 2020年9月 1364円税別