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河野裕子『はやりを』 9
嘘よりも嘘のやうなる本当のこの世今宵は月あかきかな 人間の考える事は限りがある。現実はそんな予想を超えている。「嘘よりも嘘のやう」にそんなことを思った。そんな嘘のようなこの世に月が赤く照っている。主体は驚くでもなく素直にこの世を受けとめている。
人語より人語にわたる太き息細き息なり肉声とふは 言葉を含んだ太い息、細い息。その言葉が人から人へ届く。それが肉声なのだ。この前後の歌には声を定義付けるような歌が多くある。声を肉声と呼ぶとき、声を発する人の身体と、聞く者の身体が感応する。
いつまでも死なざる蛇をとり囲み子供らがこゑおさへて低し 子供らが蛇を弄んで殺そうとしたが、死にかけの蛇はいつまでも動いている。瞼の無い眼で子供らを見つめながら。子供らは声を低くして、何かをささやきあっている。生命の持つ恐ろしさに触れたのだ。
こゑのみは身体を離れて往来(ゆきき)せりこゑとふ身体の一部を愛す 声は身体の一部。他のどの部位も身体から取り外せないが、声のみは身体を離れ、お互いに往来することができる。声を聞くことは、その人の肉体に触れること。あるいは声は人そのものなのだ。
2023.6.11. Twitterより編集再掲