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『短歌研究』2024年10月号

①竹内亮「仮想的な歌と脳化社会」
現代短歌評論賞ご受賞おめでとうございます!
〈前者は「わからない歌」であり、後者は「わかる歌」であって、一見、反対の方向にある。〉
 ここ、少し疑問に思った。ここまで細かく分析してきたのに、急に大きくまとめた感があった。
〈「わからない」こと自体が志向されている、そのようにして作られた「わからない」歌が読者に受け入れられているようにも思われるのである。〉
〈現代において、身体感覚に裏打ちされていない歌がむしろ積極的に志向されているといえるのではないだろうか。〉
〈このような不安の強い歌は、「人工的」ではないのではないだろうか。〉
 この辺り全部面白いなあと思った。これ一個一個でも評論が一つずつ書けそう。もっと読みたいなあと思った。

②奥村鼓太郎「アリーナが消失する前に」
 現代短歌評論賞次席おめでとうございます!
〈川本千栄著『キマイラ文語』は、一冊を通してその前提(口語と文語は対立する)に揺さぶりをかけた点で、画期的な評論集であった。〉
 引いていただき、ありがとうございます!論のきっかけに私の評論集がなったのなら、こんなうれしいことはない。もちろん著者と私の論の考え方には相違点があるが、それは当たり前のこと。私もこの論を読んでまた色々考えていきたいと思った。

③特集「口語短歌の詠嘆」の研究
 特集タイトルで「口語短歌の」、と銘打つということは、何も取り上げられなくても対比概念として「文語短歌の」詠嘆があるということだろうか?だとしたら文語口語という腑分けはなかなか無くならないもなのだなあと改めて思った。

④相田奈緒「発声と呼吸、その再現可能性」
〈本稿では、口語短歌のなかの「話し言葉的表現」と「書き言葉的表現」を区別し、前者を端的に「発話」として考えたい(ひとりごとのような心内語も含める)。〉
 確かに、もう話し言葉・書き言葉に論点が移ってもいい時期。
〈「発話」は、作中で発声される台詞としての役割から、内心の吐露に近い心内語へ、そして言いさしや句跨りなどの他のさまざまな修辞と組み合わさり、より詠嘆に近い機能へと拡大しているのではないか。〉
 「会話」ではなく「発話」。この用語に賛成する。他にも今までに使われている、共通認識のある批評用語を使って、論全体が明快な論点で貫かれている。口語体で作る作者が、なぜ口語体を選択するのか、という根源にも迫っている論だと思った。

⑤大塚凱「霞の道」
〈「だろう」「かなあ」「かも」「たぶん」「なら」「のに」といった推量表現のように、乏しい助動詞を補う副詞や助詞をふんだんに駆使することで、さまざまな濃度の曖昧さを表現することができる。場合によっては、比喩や疑問詞・疑問文も用いられよう。〉
 共感した。口語体の推量表現の豊かさから詠嘆への経路。とてもスリリング。文語体に比べて口語体は時間の助動詞など無いものばかり指摘されるが、口語体の方が豊かな部分は確実にある。そこはもっと論じられていい。
 注記に『キマイラ文語』を引用していただきました。ありがとうございます。
 私自身は時間表現に囚われていたが、推量表現かー!と思って、目からウロコだった。

⑥吉川宏志「1970年代短歌史 新人賞と女性歌人たち」
 〈もちろん田谷鋭も、この(栗木京子の)歌の新しさは感じ取っていたのだろう。しかし、作品の新しさに、批評の言葉が追いつかなかったのである。それは、新しい歌が登場したとき、しばしば起こる現象のように思われる。〉
 昔も今も起こっていることは同じのようだ。田谷の評をステップにして吉川が続けている評は、かなり手堅く、栗木の応募作の長所短所を洗い出している。
 この文を読むと、新しい歌に評の言葉が追いつかないなりにも、選考委員はかなり誠実に言葉を探して評している印象だ。曖昧な新しい批評用語を作るより、今ある批評用語、汎用性の高い語で丁寧に評していくことが、却って後の時代に繋がりやすいのではないか、という印象を持った。

⑦吉川宏志「1970年代短歌史 新人賞と女性歌人たち」
 70年代短歌史がどんどん70年代末に近づいて行く…。
 今回は、女性歌人の隆盛の時代の幕開けを感じた。今となっては男性女性と区分けする方がおかしいが、一度はこの時代を経なけれがならなかったのだと思う。

2024.10.31.~11.1. Twitterより編集再掲

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