『現代短歌』2023年3月号
①ウクライナ支援は施(ほどこ)しなどでなく投資なのだ、と叫(おら)べるこゑす 大辻隆弘 施しなら払うだけだが、投資なら利益が還元される、だから支援しようということか。施しも投資も身震いするほど嫌な考え方だ。叫ぶをおらぶと読ませる作者もそう思ったのだろう。
②火の中にみるみる燃ゆる藁ありて地面に落つるまへに燃え果つ 大辻隆弘 燃える火の中に藁を放り込んだら、あっと言う間に燃え尽きる。地面に落ちる前に形も無くなってしまう。実際の藁の描写かも知れないが、何かの喩にも読める。圧倒的な力の差の前に敗れる何か。
③佐藤通雅「短歌歳時記 如月から弥生」
〈当時私は、「河北歌壇」の選を担当していた。さすがに大震災直後には、投稿歌がなかった。しかし、しだいに生死の境界をくぐりぬけた人たちの歌は、多数寄せられるようになる。この体験をことばにせずにいられない、死者の思いも代弁しないではいられない、という、緊迫感に満ちていた。〉
前世とは震災前の世にてあらむうつつの被災地に咲く山ざくら 畠山みな子 〈東日本大震災は、大地震と大津波だけではなかった。福島原発のメルトダウンが、ほぼ同時に起き、多数の人々が避難を強いられた。(…)十一年経た現在でも、放射能は完全に消えていない。(…)以来、どんどん歳月は過ぎて行くが、二月を越えて三月になるたびに、胸深くに突き刺さった傷は、よみがえってくる。〉
佐藤のこの文を読み、誰もが当事者であることをもう一度考える。
④座談会「『つきかげ』はなぜおもしろいのか」
小池光〈やっぱり言葉で歌を作っている。写生なんて建前で看板には書いてあるんだけどさ、実際やってることは言葉を操作して、新しい言葉と言葉の組み合わせを試してみたりね。簡単に言えば、詩だよね。ポエジー。新しい言葉の発見みたいな意味での詩が、斎藤茂吉にはきわだってあるんだよ。実に読んでいておもしろいんだけど、不思議な日本語だなぁと思うことがしばしばあるんですよね。〉(... )
山下翔〈私は茂吉と小池さんの関連をずっと意識して、そのへんも茂吉を読むたのしみの一つですね。〉
『つきかげ』を素材に斎藤茂吉の魅力を語る座談会。小池光、山下翔、花山周子。確かに小池の言うように、言葉遣いの面白さは分かる。それを小池が継承していることも。さらに言えばそれを山下翔が継承していると私は思うのだが。面白さに加えて、どういうところが感動的なのかが知りたい。
⑤座談会 茂吉の歌の面白さはだんだんわかってきた。感動はどこから来るのか。それはこの座談会でもまだつかめなかった。 あと、面白かった会話。 花山周子〈ほかの近代の歌人も眠くなった感じですか、最初は。〉
山下翔〈最初は全部、眠かったですね。〉
あまりにも正直で笑ってしまった。眠いよね、近代短歌…。花山も山下も言っているように「最初は」眠いのだ。だんだん慣れてくる。それから、
花山〈「かも」みたいな万葉から近代に入ったもの、そういうのを有名な歌で知って、最初の歌集とかにわりと平気で使ってたんですね。あとから見てギョッとしたというか、よくもこんなに平気で使ったなって。今のほうが使えなくなってますね。〉
この発言も頷いた。思い当たる節がある。短歌を始めた初期の方が、重々しい文語を使ってしまいがち。学校で習う短歌のせいだろうか。そんなことを考えた。
⑥土井礼一郎「歌壇時評 短歌史をふまえる、とは?」
〈もし私が今一度おなじ課題で評論に取り組むなら(篠の苦言がなかったとしても)きっと曲がりなりにも短歌史を踏まえた原稿を書こうとするだろう。それは、自分の目の届きやすい同年配の歌人ばかりを好んで取り上げる恥ずかしさが今なら分かるからなのだが、(…)〉
現代短歌評論賞受賞時の篠弘から著者への発言を通して、短歌史を踏まえるとはという点を考察した時評。確かに原稿用紙30枚では短歌史の考察まで網羅できないかもしれない。
と同時に、評論とは全て「史」に繋がるものではないか、とも思う。ある評論がある時代のある部分だけを、例えば現代だけを扱っていても、そこに「史」に繋がろうという意識があれば、それを鎖の一つの目として、色々な方向から論を繋ぎ、「史」を編むこともできるのではないか。
⑦白秋と名づけられたる薔薇の首ありしあたりに触るる玄冬 佐藤弓生 この薔薇の名の由来は、季節を人生に喩えた言葉(青春・朱夏・白秋・玄冬)か、北原白秋か。人間の名前からなら、「首」という語に実感がある。人生の秋の気分が冬に移りつつあるとも取れる。
⑧肉を断つ刃の感触の掌に残る一塊の牛の屍肉にあれど 永田淳 食べることは命をいただくこと、と給食の時間に習った覚えがある。そこからの連想か、食材を死体と認識する歌は多い。この一首は調理の詳細な体感を描いていて、「屍肉」という漢字も強い印象を与える。
2023.2.19.~21.Twitterより編集再掲