短歌におけるオノマトペ(後半)【再録・青磁社週刊時評第五十四回2009.7.13.】

短歌におけるオノマトペ(後半)       川本千栄

 つまり、歌人というのは言語に対する体感や感覚が鋭い人であるはずで、だから固有の音の質感などという話になれば大いにその本領を発揮し、専門家もうなずく推理をすることも可能だということだ。もっと言えば、オノマトペの起源や成立についての考証はその道のプロに任せて、小池光には研究や学問とは違う立場で、「短歌におけるオノマトペ」に関する発言をもっと多くして欲しかった。
 もちろん、そうした小池の発言はいくつかあったし、それに対して山口仲美はあくまで言語学者としての意見を述べていたが、そのあたりのやり取りがやはりこの企画の価値が最も出ていたところだろう。例えば、斎藤茂吉の「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」を挙げて、

小池 短歌の場合の特徴なんですけれども、単なるオノマトペというのではなくて、音のリズム感を使って、序奏というんですか、いきなり本題に入らないで、ちょっとそこで停滞して転換するみたいなところに、すごくこの「しんしんと」などは効いているわけです。「死に近き母に添寝の」と言っておいて、下句に蛙を出すときにそこへ「しんしん」の橋を架けてつなぐみたいなところがある。(…)

 と述べ、「しんしん」を無意味な音として置いて上句と下句を繋いでいることを説明している。それに対して山口は「しんしんと」には意味があると言ってなかなか納得しないが、そこを小池が上句下句の両方に掛かっていると説明している。ただ山口も古典和歌に使われる掛詞の例を次々繰り出してくるなど、大変な論客である。しかも前述したように、現代短歌のすぐれたオノマトペの例歌も豊富に引用して論じている。まさに丁々発止の掛け合いと言ったところで、読み応えがあった。
 実作者・歌人でない人、特に言語学者の立場から見たオノマトペの考察は新鮮である。「擬音語とか擬態語というのは、音そのものが意味を表す、言語の中で非常に特殊な言語ですよね」という山口の指摘は、やはり短歌作者の口からは出て来ない。改めて違う角度から、短歌の中のオノマトペを再考する機会を得た対談であった。

 なにもかも決めかねている日々ののち ぱしゅっとあける三ツ矢サイダー
 糊のきくセーラー襟にじくじくの自意識熟れてたぶん醜い
 自転車の学校名のステッカーひりひり剥がす 忘れずにいる
                   野口あや子
『くびすじの欠片』

(了 第五十四回2009年7月13日分)



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