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『現代短歌』2024年9月号

くべてゆく炎の枝に移るとき後戻りする道は消えたり 遠藤由季 人生の岐路は後からはそうだと分かるが、その時その場では分からない。そして岐路からの一歩を進めば、時間の経過とともに、後戻りすることは出来なくなる。火がその道を燃やしてしまうように。
 別れた人の消息を知り、記憶を辿る一連。背景になる事件にリアリティを感じた。淡い感情がとても丁寧に詠われている。掲出歌の一首前一首後の歌も魅力的。
分かれ道あるいは階段だったのだ二人が立っていた草原は 遠藤由季
わがこころに雨を降らせる人ではもうあらざる影よ窓に紫陽花

②「特集アララギ新世紀」大辻隆弘
〈20世紀後半に至ると、土屋文明はアララギの「写生」という理念を「リアリズム」として捉え直す。「いま」「ここ」で立ち現れている現実を最重視し、それを短歌定型のなかに定位させる。〉
 この前段に写生についての論があり、それと合わせて読むと、「写生」と「リアリズム」との関係が腑に落ちる。
〈私たちの前にある現実は多様で、私たちの想像を超えた偶然に満ちている。私たちはその現実の豊かさを信頼し、それに心を開くことによって、自分の小さな主観の埒を越え出ることができる。〉
 確かにこれがアララギのいうところだというのがよく分かる。いわゆる「アララギイズム」を丁寧、かつコンパクトに解説した論。アララギについて再確認することができる。

③大辻隆弘〈茂吉・赤彦・文明は雑多な文体を含む万葉集のなかから近代人の内面にふさわしい辞や文体を精選していった。重厚な内面を感じさせる詠嘆の「けり」、内面的な回想を表現する「つ」「ぬ」「き」、近代人の内的時間を表現する「つつあり」「ゐたり」。〉
 その一方で、近代人のセンスに合わない辞や文体は取り入れられなかったわけで、まさにこれが「近代文語」の生成過程ということができる。現代の私たちが短歌の「文語」と呼んでいるものは近代歌人による、意識的な取捨選択の結果のものだ。近代語に古語を混ぜた詩歌語なのだ。

④今井恵子「アララギ継承」
〈ちなみに「写生写実」を理念としない歌というとき、わたしが脳裏に思い浮かべる歌は、(…)というような自然や人間に主体が一体化して叙情する歌である。もちろん、これら作者の歌がすべてそのようにできているというのではないし、いわゆる「アララギ」の作者にも類似の歌があるだろう。〉
 この辺り、差異が良く分からない。写生写実を理念とする短歌と、理念としない短歌、というように近代短歌が(現代短歌も?)分けられるのかという疑問を持った。自然や人間に主体が一体化して…というのも解釈次第に思える。

⑤今井恵子〈それぞれ印象派の静物画を見ているような趣である。写真とは違う点に注目したい。絵と写真は、同じ視覚芸術だが、(…)写真は後に修正を加えたりトリミングしたりするとしても、写真家の意図しないものが写り込む。これに対して絵は、画家が描こうとするつまり、画家の意識を通過したものだけが画布の上に置かれるのである。〉
 この文での絵と写真の違いはよく分かる。写真のように写真家が意図しないものが短歌の中に映り込むということはまず無いから、言語芸術の写生は全て写真的というより絵画的という理解でいいだろうか。ざっくりと、「写生写実を理念とする短歌」は写真というより絵、とすると、この論の最初の方で出て来た、「写生写実を理念としない短歌」はどのように表現されるのか。それをもうちょっと聞きたかったなと思った。

⑥吉川宏志「読者と、意外なもの」
〈鉄幹の場合、その詩歌観は、どこまでも作者中心である。(…)子規はむしろ、作者と読者とのあいだに〈いきいきとしたもの〉-リアリティと言ってもいい-が生じてくることを探求しようとしていた。〉
 吉川の子規論は近代読者論だ。

⑦瀬戸夏子「「ニューアララギ」について」
〈そもそも所属している結社によってその歌人がアララギか否かを判断するフェーズはとっくの昔に終わっていたと思う。〉
 同意。
〈アララギといっても厳密にいえば何をもってアララギとするのだろう。〉
 この問いに対する瀬戸自身の見解が文の中に見当たらない。 〈写生、写実、リアリズム、生活即短歌。〉と単語のみで書かれた一行があるが、これだろうか?  色々な見解があるとしても、少なくとも瀬戸の見解は聞きたい。アララギに対する見解無しで「ニューアララギ」を考えるのは難しい。

⑧瀬戸夏子〈ニューウェーブが前衛短歌の新バージョンだったとすれば、アンチニューウェーブとしてのポストニューウェーブがアララギの側に揺り戻されるのはむしろ当然のことだった。ポストニューウェーブは反動保守なのである。〉
 この一文はやや急ぎ過ぎな感じだ。
 ニューウェーブは前衛短歌の新バージョンと仮定していいの、とか。  
 ポストニューウェーブという語も誰を指すのかまだはっきりしていないと思うし、それはアンチニューウェーブなの?反動保守なの?とか。
 反動保守な短歌ってどんなの?とか。 もう少し詳しく聞きたいことばかり。

⑨瀬戸夏子〈ここでキーとなるのが、「口語」の導入である。(…)「口語」メインでもリアリズムをやっているならこのさい「アララギ」でもいいじゃないかと言いたいところなのだが(…)「口語」を「前衛」側に位置づけている限り、即アララギというのは難しいのだろう〉
 「口語」を「前衛」側に位置づけるっていうのがよく分からないのだが…
 ここをいったん保留にすると、「文語」でリアリズムなら「アララギ」、「口語」でリアリズムなら「ニューアララギ」、という理解でいいのでしょうか??はっきりした定義が聞きたいな。文語も口語も同じ現代語というのが私の主張なので、理解に迷う。
 それ以前に「アララギ」だ。本特集での「アララギ系秀歌」もばらつきがある。もう少し現代における「アララギ」や「リアリズム」の議論を読んでから、「ニュー」があった方がいいのかどうか考えたいと思った。

2024.7.28.~31. Twitterより編集再掲

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