河野裕子『はやりを』 14
いつもどこかすこし汚れてゐる子らのぬくとき匂ひぬくとき手足 子供は身体が汚れることなど気にせず遊ぶ。母親が清潔に保とうとしても、いつもどこかが少し汚れている。そしてその身体は温かい。子供の身体の温かさを体感しながら抱きしめるように詠う。
蟬声の中に生(あ)れし子この裸身与へ得しのみわが得たるのみ 子供を産むことを究極に突き詰めた形で言えば、裸の子どもをこの世に生まれしめたことだ。母は子に身体を与えたと同時に、子の身体を得た。普遍的な把握だが、蟬声がそれを個別の体験としている。
若葉らの熱(ほめ)きは噎(むせ)ぶばかりにてこの山食ひたし食はれてもよし 山全体が成長する葉の命の熱で火照っているようだ。その噎ぶばかりの命の熱さ。「熱き」という言葉が強い。下句の繰り返しの文体も、自然と一体化したようで、古代的な力強さがある。
紫陽花のふふむ雨滴を揺りこぼす言はば言葉がすべてとならむ 紫陽花を揺らして花が含む雨滴を零す。言葉に出してしまえば、もうそれが全部になってしまい、言葉以前の思いの複雑さは失われてしまう。零した雨滴同様、元には戻せない。それが人を刺したとしても。
チョークの矢道に書き継ぎ帰り来て「木にも壁にも描いた」と子言ふ/子の圏に踏み交(まじ)りゆくたのしさの路上の矢印さかのぼりゆく 学校から家までチョークで矢印を書きながら帰って来た子。そしてそれを母である主体に報告している。
おそらく矢印は「ぼくのいえ、こっち」というように自分の家へ案内するものだったのだろう。それを聞いて、家から学校に矢印を遡ってたどってゆく主体。子と同じ目線を持ち、子の圏内に入って行くことを喜びとして。「忙しいから後でね」などというセリフとは無縁の母親なのだ。
2023.6.16. Twitterより編集再掲