「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」と「ふたりのイーダ」✒️私は戦争児童文学チルドレン
映画館で「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観たのは、去年のことだ。
先に鑑賞した娘が、
「絶対いいから! 観て!」
と力説し、一緒に行くことになった。
といっても、なかなか忙しくて延び延びになり、
「ね〜、もう公開終わっちゃうよ」
「あ、じゃあ明日ならOKだけど」
と返事した途端、ネットで座席予約された。仕事が早い。
久しぶりの映画館。たっぷりの予告に、NO MORE 映画泥棒のCM。進化して格好良くなってた。びっくり。
ようやく本編が始まる……。
エンドロールが流れた頃には、私はほとんど涙目になっていた。
よかった。観てよかった。
ただ……重かった。ずっしりきた。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」
舞台は、昭和三十年代。
戦争は終わったが、戦禍の爪痕が未だ生々しく残っていた。生き残った人々は、復興に必死だった時代。
作中では、主人公の水木によって、従軍した体験が語られる。
大義という名分の下に、上官は「死ね」と命じる。
なのに、自らは死なない。特権を駆使して生き延びる。
それが罷り通った。
戦場は、当時の理不尽な社会そのものの縮図だった。
強い者が弱い者を支配し、搾取する。殺す。
日本が他国に対して行った侵略。
それだけではなく、日本国内でもそうだった。権力を持つ者が、抗えない立場の者を死に追いやり、自らは肥え太る。
軍隊で。銃後の社会でも。
そして戦争が終わった。
だが、高度経済成長期に入った日本で、再び同じ事が行われているのだと、この映画は話を進めて行く。
日本が豊かになる為だ。幽霊族を利用するのだ。
捕えて、その生き血で人間を強化する。
なぁに、あいつらは自分達とは違う存在だ。
傷つこうが、苦しもうが、構うことはない。
それは、まさに戦時中の被侵略国に対する本音であった。
作中、水木も同様の考えを語っている。
弱い者は強い者に踏み付けにされるだけ。戦争で思い知った。自分は、何としてでも力が欲しいのだ、と。
夜行列車の車内で、煙草の煙が充満し、咳き込む子どもがいたとしても、同情し省みる大人はいない。喫煙は自由。続行。
そんな時代だった。
弱者を思いやる余裕もなかった。生き残った人間の大半は、髪を振り乱して働かねば生きていけなかったから。
やがて来た復興、この波に乗るのだ。なんとしても。自分が豊かになるために。
高度経済成長期の原動力。それは、人々の渇望だった。敗戦のもたらした貧しさから脱却したい。そう、ちょっとくらい、人を押しのけてでも。
夜行列車の中、煙草を手に、僅かに躊躇する水木のシーン。
そこに、染まり切れない彼の迷いが見て取れる。
終盤、時貞翁がぶち上げる演説も、戦時中の論理とシンクロした。
今どきの若者は不甲斐ない。
まだ、この自分が導いてやらねばならぬ、と。
まさに、大東亜共栄圏を唱えた為政者と同じだ。
優れた日本が、他の劣っているアジア諸国を導く。
ご大層な理想。その裏側に大きく書かれた本音が、大問題だった。
そのためには、何をしてもかまわん。
人間が持つ、「自分たちとは違う」と見なした相手への非情さ。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」では、それを提起し、この時代に今一度考えるよう促しているのだ。
戦争児童文学と私
エンドロールの音楽を聞きながら、私は自分自身に戸惑っていた。
確かに、よかった。エンターテインメントとしても、純粋に楽しめる。
映像も綺麗だし、音楽もぴったり。
キャラクターも秀逸。何よりも、時貞翁。これほど胸糞の悪い悪役は、滅多に作れるもんじゃない。振り切れていて、凄い。
ただ、どうしてだろう。
私は、なぜか自分が責められているような気がして、辛い気持ちになってしまったのだ。
その理由を、後日ゆっくりと考えてみた。
私は、昭和四十年代生まれ。直接、戦争に巻き込まれた世代ではない。
だが、当時は今よりもずっと身近に「戦争」があった。
その一番の原因。それが、子供の頃から読んでいた「本」だったのだ。
戦争がようやく終わり、現代児童文学が産声を上げたのが昭和三十四年頃とされている。
私が幼少期を過ごした昭和四十年代は、まさに芽吹いた苗がぐんぐんと伸びていった時代であった。
松谷みよ子「ふたりのイーダ」
灰谷健次郎「太陽の子」
高木敏子「ガラスのうさぎ」
書き切れない。
そして、小学校の教室の本棚に、図書館に、これらの児童書は並んでいた。
親が買い与えてくれたのも、本だ。子どもへのプレゼントの定番が、本という時代でもあったのだ。
いわゆる「戦争児童文学」でなくても、「戦争」は当時の児童文学に溶け込んでいた。
主人公の暮らしているのが戦時中だったり、戦争が終わった頃と書いてあったり。
その物語を書いた作者は、もれなく戦争体験者だった。
戦争に関する記述を避けて通れなかったのもあるだろう。
だが、何よりも、作家は自分の中に訴えたいことがあるから、物語を書くのだ。
戦時中。子どもに向けた漫画や本は、押し並べて戦争をワクワクする物語に仕立てあげていた。そこでは、勇敢な兵隊さんが活躍する。
子どもを理想の兵士にすべく感化していたのだ。
違う。そうではないんだ。
自分は、それを身をもって知った。
だから、君たち子供に伝えていかなければならないんだ。
本当の、戦争というものを。
その作者たちの思いが、当時の児童文学の根底に流れていた。
幼少期の私は、もちろんそんな歴史的背景を理解できていなかった。
ただ、そこに本があるから読む。
そして、ずっぽりとその世界を楽しむ。
「ふたりのイーダ」で、椅子が歩くのを読んでも、
「あ〜、椅子が歩くのね」
と、そのまま受け入れる。
そして、それが原爆の話に繋がっても、子供はそれを訴えるための作り話として書かれたとは思わない。
児童文学を、大人になってからではなく、児童のうちに読む。それは得難い経験である。
作者の展開する世界に、先入観無しに飛び込み、味わえるのだから。
ただし、それは危うさも伴う。
戦時中の「戦意高揚」譚に騙されたまま、命を落とした国民が、幾人もいただろうから。
振り返って自分のことを考えると、この戦争児童文学が自分に与えた影響は、かなり大きい。
戦争はいけない。体の軸に、その思いがある。
だが、私は戦争を体験しているわけではないのだ。
これが当事者ならば、苦労も死にそうな目にもあっている。
「それはそうだけど……」と、他の思いも混じることだろう。
だが、私は児童書に書かれた「戦争」のエッセンスだけを与えられ、成長した。いわば「戦争児童文学チルドレン」だ。
だから、純粋な思いだけが、この身の内に育っている。
戦争はいけない。間違いだった。二度と繰り返してはならない。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観て、私は辛かった。
人の奥底にある他者への無慈悲を、引き摺り出されて見せつけられた気がしたのだ。
もちろん、自分にだって、それはある。
今後、もし極限の状況が訪れた時、私もあっさりと他者を切り捨てしまうのではないかと。
終わりに
涙目を堪えつつ、まだエンドロールが流れる中、私は中座した。
現実問題として、トイレに行きたくて限界だったのだ。
予告、長過ぎだったでしょ。
だが、何故か誰一人として席を立たない。
「も〜。ラストに映像があったんだよ! それ観なきゃ」
後で娘に教えられた。
なるほど。でも切羽詰まってたんだよ〜。
そこで、その後U-NEXTで、ちゃんと最後まで観ました。
私の娘は、また違う世代だ。異なる感想を抱いただろう。
では、戦争を体験した親の世代は? この作品を観てどう感じるのか。
同じ思いでは無い。それでも、幅広い世代に、等しく「何か」を感じさせる。
それが名作であると私は思う。
戦争について詩を書きました⬇️
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