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「ペンギン・ハイウェイ」 って、単なるジュヴナイルではない。
この劇場版アニメ、「未来のミライ」のレンタルブルーレイの冒頭の、おまけのレンタル開始予告編にたまたま収録されていて、何かしらんがペンギンがうようよ湧いて出る映像にインパクトがあったので、このペンギンの謎を、クラスメートや年上のおねーさんと読み解く、ぐらいのストーリーの、子供向けエンターティメントかと思っていた。
一応、いつか観てみる候補として、タイトルを紙にひかえておいた・・・ぐらいの作品であったに過ぎない。
昨日は、毎日1作レビューというノルマを自分に課してきて、そろそろこの札を切ってみるか・・・というくらいの軽い気持ちだった。
それがここまでいい意味で「裏切られる」とは思ってもいなかった。
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確かに、この作品を、主人公と同じか少し年上ぐらいの小学校上学年層を観客として対象とした映画、としてとらえることも可能である。
良質のジュヴナイルアニメともとらえられる。
キャラクターデサインは、ジブリ的とも言えるし、緑の豊富な背景の作画の奥深さも、CG版トトロ的と言いたいいいたいところがある。
小学生の少年少女たちの描き方としてもすこぶるわかりやすく、奇をてらうところが全くない。
主人公と友人、クラスメートの少女、ガキ大将、見守る親たち、実に感情移入しやすい。
恐らく、この映画に抵抗を示すのは、18歳を超えてしまったあたりからではないのか。
「ペンギンの、おねーさんの正体は結局何だったんだ!! 納得いかない!!」
私は、この、どんどん不条理になって行く物語の謎をいちいち「解説」してくれないあたりにこそ、魅力を感じたのだが。
中途半端に頭で「理解」しようとはせず、説明できない部分は「何となく」流して受け入れれば、ラストのオチのしんみりした余韻にも浸れる・・・そういうタイプの作品なのではないか。
ある意味では、「計算づく」では作れない物語である。この点、先日レビューした「あした世界が終わるとしても」が、とことん計算されている物語構成のベースラインを守っているからもっと評価されていいというふうに思えるのとは対極である。
でも、勢いだけで生み出された、とっ散らかった、説明不足の作品だとは感じない。
むしろ、ありきたりなパターン化ができない、「創作の神様」が宿っている物語だと思う。
これは原作小説が相当クリエイティヴで、それを十分理解して消化し、映像化できるだけのアニメスタッフに恵まれているのであろうと直感した。
おかげで、原作の方も読んでみたくなって、Amazon Kindleであっさり検索できたので、ほんの3時間ぐらいで読破できた。
その後、原作の森見登美彦という作家についての情報を集める、という順序だったのだが、まさか、ただのジュヴナイル作家ではなく、直木賞候補に何回も選ばれる作家さんで、この原作自体が「日本SF大賞」受賞と知って唖然としました。
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もう少し物語について解説しましょう。
ある地方都市に、突如ペンギンが湧いて出るようになるという事件が起こる、という始まりなのは確かだ。
小学校4年生のアオヤマのいるクラスでもそのことが噂となる。探究心旺盛なアオヤマは、友人のウチダと共にこの謎の解明を始めるのだが、物語はそちらにストレートに進むわけではない。
このアオヤマは、まだ永久歯に生え変わる途中の段階にある。なのに歯磨きを怠っている。
おかげで、たびたび歯医者さんの厄介になるようだが、その歯科医院の歯科助手に、おねーさんがいるのだ(名前はこの作品の中で最後までわからない)。
アオヤマはそのおねーさんとチェスをする間柄なのだが、おねーさんのおっぱいのことが気になって仕方がない。つい目が行ってしまう。おねーさん(アオヤマのことを「おい、少年」としか呼ばない)もそのことに気づいてたしなめてくる。
アオヤマは、ガキ大将スズキからの「報復」を受け、自動販売機に縛り付けられていたのをきっかけに、なんとそのおねーさんが缶コーラを宙に投げると、ペンギンになってしまうのを目の当たりにする。
しかも、おねーさんは、そのことを、自分でもわけがわからんけど、自覚している。
こうして、ペンギンの謎はおねーさんの謎にもなる。
その一方、アオヤマのクラスでのチェス相手でもある同級生の女の子、ハヤモトもまた、不条理な謎の探求をしていた。
森の向こうに広がる草原に忽然と浮かぶ、巨大な水の玉の正体である。
ハヤモトは、アオヤマとウチダをこの水の玉の正体探求にも巻き込む。
結局、アオヤマは、おねーさんとペンギンの謎が、水の玉の謎とリンクしていることに気づいていく。
更にアオヤマは、おねーさんの弱さにも直面する。
これは、出没するようになった怪物、ジャバウォックの謎ともリンクしてくることにもなる。
ここからが物語の、怒涛のクライマックス展開ということになるのだが。
結局、ハヤモトが結論づけた、おねーさんの正体と運命は、おねーさん自身も思いもよらないものだった。
そして、おねーさんとの別れの時が来る。
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アオヤマのセリフの中で、SF的な謎解きの理屈は語られているだけではなく、そのシーンより前の、アオヤマの父がしてみせたことの中にも、実は原作にすらない表現様式の、ハードSF的な示唆がある。これはアニメの中で直接せりふとしてブラックホール理論とかについてくどくどしく言わせると難解になることを、直感的に示唆するためのものだろう。
でも、SF的理解だけではすべてを説明できない謎が残る。
でも、「それでも残る謎と不条理」ということそのものがこの作品のテーマであるとも理解できまいか?
思春期にすら入らない少年にとっては、おねーさんは性欲の対象としてはっきり意識されているわけではない。
恋愛感情的対象ですならない。
お母さんのおっぱいは気にならないのに、おねーさんのおっぱいは気になる。
それはひとつの不条理な謎である。
おねーさんがペンギンを出せるということも、少年からみたおねーさん世代の女性に漠然と感じる様々な謎の象徴的表現であろう。
このメタファーは極めて多義的で、人によって、いかようにも解釈の可能性がある、ある意味で正答というものはない。それでいいのではないか。
でも、その不条理は、決して解消されないまま、少年としての日々は終わる。
まあ、これは少年の成長ドラマ、ジュヴナイルの枠組みでの理解であるが。
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ただ、ネタバレかもしれないが、すでに触れたように、おねーさん自身が、自分が「そのような」運命が待っている存在であるとは全然思ってはなかった、つまり自分の正体に気づいていなかったという点が興味深い。
この点では、このおねーさんは、決して「銀河鉄道999」の、星野鉄郎に対する使命を自覚したメーテルではないのである。
少年の立場ではなく、「おねーさんの立場にたって」この物語を読み解けば、結局最後に、おねーさんのアイデンディディが根底から覆されることとなる。
ここからおねーさん自体が、実は、世界の創造主が遣わした傀儡的存在、あるいは2001年的な意味での異星人の遣わした存在、などという飛躍した解釈の余地も残すであろう。
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原作を読んでみた。
若干枝葉を整理し、細かいエピソードの順序を入れ替えるなどのことはしているが、アニメ化が、想像以上に原作リスペクトしているもので、ひょっとしたらアニメ化にあたっての暴走かと思われていたクライマックスも、実はほぼ原作通りの筋書きであったことにはちょっと驚いた。
もとより、それは単なる原作のトレースではなく、小説を映像作品化する上で必要な想像力に十分恵まれたものであると思う。
原作だけでは、アニメ版の生活感あふれる地方都市とか、森の神秘も感じさせる緻密な背景美術、生き生きとした小学生らしさというものは想像できない次元であるとは思う。
日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞受賞というのも頷ける。
ただ、原作の、死についてのアオヤマのウチダへの執拗な問いかけは、アニメの物語の流れに乗らないこともあろうが、原作からアニメになるにあたって汲み取られなかった、結構重要な部分かと思う。
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このようにとらえたところで、はじめて原作の森見登美彦氏について調べ、ジュヴナイル作家ところか直木賞候補作家で、しかもこれまでは大学生を主人公とした作品が多く、そうした作品のアニメ化(「四畳半神話大系」TVシリーズとか非常に評価が高いとのこと)、「夜は短し愛せよ乙女」の際には、全く異質な、シュールで青年誌的演出で描かれいるらしいと知って(Youtubeで確認した)、かなり衝撃を受けた。
こりゃ、一筋縄ではいかない作家さんのようである。
まさに、たまたまジュヴナイル的にも「受け取れる」作品を書いた、ということに過ぎないようなのである。
もう少し、森見登美彦氏原作の、他の映像作品も、観てみようかと思う。
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いずれにしても、「ペンギン・ハイウエイ」、「ひと夏の冒険譚」みたいな作品でもあるので、季節柄、Amazon Prime Video かNetflixでご覧になるのは非常にオススメである。
(この記事のオリジナルは、2021年7月24日 に書いたブログエントリーです。そのまま転載しました)