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米津玄師「さよーならまたいつか!」の「気のない顔」を読み解く

朝の連続テレビ小説の主題歌「さよーならまたいつか!」には、古典文学や、少し古い文学作品で用いられるような、やや古風な表現が出てきます。ここでは、この曲に使われている、そのような表現に注目してみたいと思います。


音を楽しむ

まず、大前提として、これらの古風な表現は、必ずしも適切な意味を考える必要はないということを申し上げておきます。

米津玄師の作品には、現代を生きる人には馴染みのない表現が多々用いられています。

もちろん、それらの意味を適切に読み味わうことも、あっていいでしょう。

しかし、歌としての魅力は、その言葉の意味を適切に読み解くことでしか完成しないわけではないと思います。

音の響きや、メロディーにしたときの印象や、歌い方の雰囲気によって、十分に歌は歌として受け取れると思うからです。

むしろ、あれこれと言葉の意味を考えるよりも、音をそのまま、ストレートに受け取った方が、音楽に心を重ねられるかもしれません。

ただそれでも、言葉の意味に興味を持ち、どのように解釈できるかを楽しむこともまた、あっても良いでしょう。

ここでは特に、歌の中のやや古風な表現に注目して、考えてみたいと思います。


「気のない顔」という表現

今回は特に「気のない顔」という表現に注目したいと思います。

この表現が出てくるのは、歌が始まってすぐの部分です。

どこから春が巡り来るのか 知らず知らず大人になった
見上げた先には燕が飛んでいた 気のない顔で


「気のない顔」とはどのような顔か

「気のない顔」とは、どのような顔なのでしょうか。

「気のない」とは、「そのものごとに興味がない、関心がない」という意味で用いられることが多い言葉です。


「気のない顔」をしているのは誰か

では、「気のない顔」をしているのは、でしょうか。

直前を見ると、「見上げた先には燕が飛んでいた」とあります。そこで、この部分を倒置(順序がひっくり返ること)と考えると、「見上げた先には(気のない顔で)燕が飛んでいた」ととらえることができます。

そう考えると、「気のない顔」をしているのは「燕」ですね。

「見上げた」人は、きっと空、もしくは木や、高いビルかもしれません。どこか高いところを「見上げた」のでしょう。

そうしたら、その目線の先には「燕」が飛んでいたようです。そしてその「燕」は「気のない顔」、つまり何事にも興味がなく、関心もわかないような顔をしていたということになります。


帰ってきた燕

暖かい南の国から帰ってきた燕。

燕は渡り鳥で、夏の時期を日本で過ごす「夏鳥」です。ですから、春先に、暖かい風に乗って帰ってきたのでしょう。

それなのに、「気のない顔」をしている。もしかしたら、長旅をして疲れているのかもしれません。それとも、過酷な生存競争の中で、興味や関心を持てなくなっているのかもしれません。

夏に日本で生まれ、冬を南の国で過ごし、運よくまた日本に帰って来られたのに、心が動かないのは、よほどのことがあったのでしょう。どこか、南方の戦地で戦った人々が連想されます。


言葉を省略した表現

一方で、この部分は、言葉を省略した表現だと考えることもできます。

例えば、「見上げた先には燕が飛んでいた。気のない顔で(それを見ていた)。」とも、とらえることができます。

そうなると、「気のない顔」をしているのは「燕を見た人」ということになります。


ポジティブな表現としての「燕」

基本的には、「燕」というのはポジティブに受け取られることが多い鳥でしょう。それは、春や夏というポジティブに受け取られることが多い季節とセットになることが多いからかもしれません。

日本から離れる場面では「燕」は寂しさや悲しさを思わせますが、日本に帰ってきた場面では期待や明るさを思わせます。

特にここでは、直前に「春」という表現があるので、いっそうポジティブな印象を受けます。


心躍る季節に「気のない顔」

ところが、「気のない顔」という表現は、基本的にネガティブな雰囲気をまとった言葉です。「興味や関心がない」というのは、基本的にはネガティブな言葉ですからね。

そもそも「顔」という言葉には、「態度を取る」というニュアンスがあります。

例えば「我が物顔」は、「(本来はそうではないのに)自分のものであるような態度を取る」という意味になります。

なので、「春」に「燕」がやってきて、ポジティブな心情になるはずなのに、「興味や関心がない態度を取る」という、不思議な場面だと解釈できるのです。

燕を見つめていた人は、なぜ心躍る季節に、「気のない顔」をしているのでしょうか。

これは、あえて「気のない顔」をしているとも、「気のない顔」をせざるを得ないともとることができるでしょう。

誰もが春を祝福する中で、自分だけは、自分達だけは「気のない顔」をしなければならない。

これは、「虎に翼」の中で繰り返し現れる心情ですよね。


燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや

加えて、2024年9月18日(水)に放送された、NHKの「虎に翼」の特集番組で、米津玄師さんが、ある言葉を紹介していました。

燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや

歌の歌詞について語る中で、直接引用はしていないとしつつも、言葉の響きの例としてあげたものです。


陳渉の言葉

これは最も有名な中国の歴史書の一つ「史記(しき)」から取られた故事成語(こじせいご、古い話が元になってできた言葉)です。

「史記」の「陳渉(ちんしょう)」という人について書かれた「陳渉世家(せいか)」の中にあるエピソードです。

当時、陳渉は、主の畑を耕す小作人でした。

そんな陳渉がある日、仲間たちに対して、「将来自分が偉くなって富んだとしても、お前たちのことを忘れないよ」と言いました。

仲間たちは、「小作人のお前が何を言っているんだ」と笑いましたが、陳渉はそこで言うのです。

「燕(つばめ)や雀(すずめ)のような小さい鳥に、大きな鳥の気持ちなどわからない」と。

そう言って、陳渉は自分の志が理解されないことを嘆いたのでした。

その後、この陳渉は大きな反乱を起こします。相手は秦(しん)という巨大な国家権力です。

結果的に秦を倒すことはかないませんでしたが、一定の成果を残すことはできました。


「燕」

ここまで読んでいただいた方は、既におわかりかもしれませんが、この故事成語には「燕」が出てきます。

米津玄師さんは、この歌の歌詞では「つばめ」でも「ツバメ」でもなく、「燕」という表記を用いています。

番組の中でこの故事成語が紹介されたことからも、この「燕」の背景になっていると考えるのは自然でしょう。

そう考えると、また違った視点が得られます。

「燕」を「気のない顔」で見ていた。

確かに、「燕」は春を謳歌し、期待に胸を膨らませているかもしれない。

けれども、自分はもっと大きな鳥(鴻鵠、こうこく)なのだ

「気のない顔」をしているけれども、偉大な志を持っているのだ

そんなふうにも、思えるのです。


おわりに

大前提に立ち返りますが、このフレーズは、さらりと流して聴いても十分小気味よいものです。

ただ、いくつかの視点から読み解いてみると、それはそれでおもしろいものだと思います。

どの解釈が適切だとか、この解釈はおかしいとか、そんなことを論じることは、あまり品の良いことではありません。

元来、「詩」や「歌詞」は一つの意味を表すのではなく、さまざまな背景や視点が重なり合っているものです。

この一節もまた、聴く人や、聴く場所、聴くタイミングによって、さまざまな心象を与えることでしょう。

今回は、特集番組で米津玄師さんが引用されている言葉をもとに、その世界を探訪させていただきました。


連続テレビ小説「虎に翼」オープニング・フルバージョン

米津玄師official MV


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