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古典文法講義5 なぜ品詞に分けるのか

古典文法で最初に学ぶのが品詞だが、品詞に分けることは一つの到達点である。

文法といっても、音に注目するとか、構造に注目するとか、働きに注目するとか、地域や時代による違いに注目するとか、いろんな観点がある。

そんなさまざまな観点を背景として、学校文法では、文を品詞に分けることを一つの到達点としている。なぜなのか。

文を品詞に分けたところで、文を理解できるわけではない。

例えば、「犬を飼う」を「犬(名詞)を(助詞)飼う(動詞)」と分類したところで、理解につながるだろうか。

そんなことをしなくても、「犬」がどんな生き物を指し、「飼う」ということがどんな行動を指すのかが分かれば、理解できる。

もしくは、「犬を飼う」がどのようなことを指すのか、まるごと覚えればいい。少なくとも、品詞を知る必要はない。

「それはあなたがネイティブの日本人だからですよ。外国語の母語話者であれば、品詞は大事でしょう。」

それも一理あるが、何も外国語学習に文法が必須なわけではない。「Good morning!」が「おはよう!」という意味だと分かれば、それでいい場合も多い。

例えば、「Good(形容詞)morning(名詞)」と分類することは、理解にどれほどつながるだろうか。

確かに、品詞を明確にし、厳密な「文法」に基づいた作文をする必要がある場合もあるだろう。だがそれは限られた場合である。

現実場面では、その「文法」の通りにいかない言葉の使い方も多く、そういったものを品詞の理解を経ずに、慣用的に用いることも多い。

例えば、スラングや流行語の言い回しは、その「文法」に沿わないものも多いだろう。

「文法」を学ぶことは、その言語を知るための一つの方法に過ぎない。そんなに万能で普遍なものではない。

それでは、なぜ品詞に分けるのか。たぶんそれは、「教えやすい」からである。

「学校文法」に従って品詞に分けるという学習活動は、とてもシンプルで、誰にでも取り組めるものである。学校の授業で生徒に理解させやすく、試験を作りやすい。

まるで、赤白黄色の玉を色別に分けるように、システマティックに、淡々とでき、正解も一つに定まる。

現実には「赤っぽい白」とか「青色」とかも混ざるが、「学校文法」に従えば、明確に色分けできるのだ。

もちろんそれは、実際の文章を読み味わうこととは、ほとんど関係のない学習活動である。

それでも、その不人気な割には、「教えやすい」という一点において非常に有能なこの教育活動は、依然として行われているのである。


(執筆者)吉村ジョナサン
作家。高校や学習塾などで長年国語科教育に携わる。Podcast番組「吉村ジョナサンの高校古典講義」で古典文学作品を紹介している。著書に『10分で読める高校古典文法』『50分で読める高校古典文法』など。


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