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【稀代の国際政治学者】高坂正堯の生涯

みなさんは、『海洋国家日本の構想』や『世界地図の中で考える』、『宰相吉田茂』などの名作を世に送り出し、戦後日本の行く末を鋭く見つめた国際政治学者、高坂正堯をご存知でしょうか?

高坂は理想主義が席巻していた1960年代初頭に28歳の若さで論壇デビューし、現実主義(リアリズム)の立場から理論を展開して戦後日本の国際政治学に多大な影響を与えました。

また、佐藤栄作、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘らの内閣ではブレーンとして活躍し、日本の外交政策にも深く関与しました。

今回は、戦後日本を代表する国際政治学の巨人、高坂正堯の生涯を解説します。

【生い立ち】

高坂正堯は、1934年(昭和9年)5月、京都府京都市に生まれました。

父は、西田幾多郎に師事して「京都学派四天王」とも呼ばれた哲学者、高坂正顕です。

高坂正顕

高坂の先祖は、武田信玄に仕え「武田四天王」の一人に数えられる高坂弾正忠昌信(春日虎綱)とされています。

高坂弾正忠昌信(春日虎綱)

高坂は1941年(昭和16年)4月に国民学校に入学しますが、その8か月後、真珠湾攻撃により日米が戦争状態に突入しました。

戦時中の1943年(昭和18年)、父・正顕は『世界史的立場と日本』を刊行し、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)の意義をこう述べました。

「大東亜戦争というものはヨーロッパの諸国民が東洋を侵略し、搾取し横暴を極めたからそれに対して復讐するという、ただそれだけの意味のものではない…(略)…むしろ相手の罪悪と行詰りを、これによって救ってやる、殺して生かすという大乗的な場合に、初めて本当に相手が納得してくれるのではないか」

正顕は「大東亜戦争」を思想戦と位置づけ、「米英思想の撃滅」を唱えました。

しかし、1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言を受諾し、戦争に敗れました。

国民学校5年生、まだ11歳だった高坂は日本の敗戦直後、こう綴っています。

「15日のあの発表を聞きました。たいへんくやしい事です。…(略)…せいぜい勉強して真に何もかも強く偉い日本を作り上げようと思います。ついに我等は化学戦に敗れた。きっと仇を討とうと思います。敵は今日から上陸して来ます。いよいよ有史以来はじめて敵に占領されるわけです」

(『昭和の宿命を見つめた眼』)

戦後、父・正顕は思想面から戦争に協力したとしてGHQによる公職追放が確実視され、京都帝国大学を自ら退職しました。

無職となった正顕は著述活動に専念し、中学生になっていた高坂が学校から帰ってくると一緒に散歩して歴史の話をしました。

このことが高坂を歴史好きに導きました。

1950年(昭和25年)に京都府立洛北高等学校に進学した高坂は、高校1年で生徒会の副会長、2年で生徒会長を務めました。

会長就任の演説では、戦後新しく制定された日本国憲法の問題や高校のあるべき姿を説いたと言われています。

【「現実主義者の平和論」】

高校3年生になった高坂は受験勉強に精を出し、家庭教師が「(高坂が)京大に通るのは間違いない、一番で通るかどうかが問題だ」と述べるほどの秀才ぶりを発揮します。

1953年(昭和28年)、京都大学法学部に進学した高坂は猪木正道や田岡良一から薫陶を受けました。

猪木は共産主義やマルクス主義に批判的な立場を取る数少ない政治学者です。

猪木正道(出典:防衛省防衛大学校)

1957年(昭和32年)に京都大学を卒業した高坂は、そのまま京都大学で助手となりました。

当時、「国際政治」という科目はまだ市民権を得ておらず、高坂が助手として担当した講座は「外交史」でした。

1959年(昭和34年)に助教授に昇格した高坂は、翌1960年から62年の2年間、ハーバード大学で客員研究員を務めます。

高坂はこのハーバード大学で、後に日本出身者として初めてアメリカ歴史学会会長を務めることになる国際政治学の泰斗・入江昭と知り合い、家族ぐるみの付き合いを持ちました。

そして、2年間のアメリカ留学から帰国した高坂は、「現実主義者の平和論」を執筆し、これが雑誌『中央公論』の巻頭を飾りました。

弱冠28歳の高坂は、鮮烈な論壇デビューを果たしました。

当時の論壇では、日米安全保障体制や日本の再軍備に批判的な見解を持つ丸山眞男や坂本義和らが代表的知識人として持て囃されていました。

丸山眞男
坂本義和


高坂は、こうした「理想主義者たち」に疑問を投げかけました。

1965年(昭和40年)、高坂は7本の論文を収めた単行本『海洋国家日本の構想』を刊行します。

この中で高坂は中国について次のような厳しい見方を示しました。

「中共は平和的であり、したがって中共と協力さえすればよいと考えることはまちがっている。中印国境の紛争における中共の行動は、少なくとも防禦的とはいえないものであったし、また、中共のチベットに対する政策は新帝国主義と呼んでさしつかえない」

共産主義そのものやソ連、中国、北朝鮮にシンパシーを抱く人が多くいた当時において、高坂の厳しい指摘は異彩を放ちました。

【佐藤栄作】

鮮烈な論壇デビューを飾った後も、高坂は『世界地図の中で考える』『宰相吉田茂』『国際政治』『一億の日本人』などを立て続けに執筆します。

同時に現実主義者として佐藤栄作を始めとした歴代内閣にブレーンとして関与しました。

佐藤栄作

佐藤内閣の功績としては、真っ先に「沖縄返還」が挙げられます。

第二次世界大戦終了後、沖縄はアメリカの施政権下に入り、住民が日本本土に渡航するにはパスポートが必要な状況でした。

1945年9月7日に行われた琉球方面の日本軍の降伏式典

沖縄の住民は日本への復帰を求める「祖国復帰運動」を展開しましたが、沖縄の地政学的重要性もあり、日米の沖縄返還交渉は難航しました。

1954年10月に行われた日本復帰署名運動

東アジアの安全保障環境に及ぼす影響を鑑み、沖縄の日本復帰に懸念を表明する近隣国もありました。

そうした難しい状況の中、高坂は政府の会議や有識者会議に出席して沖縄返還の理論的支柱となり、佐藤外交を支援しました。

こうして1972年(昭和47年)、沖縄が27年ぶりに日本へ復帰しました。

ちなみに、前年の1971年に高坂は36歳で京都大学法学部教授に就任しています。

佐藤から施政方針演説や国連演説の内容に意見を求められたり、非公式な諮問機関のメンバーに名を連ねるなど、高坂は佐藤内閣に深く関与しました。

第3次佐藤栄作内(出典:首相官邸ホームページ)

1960年代後半は、東大安田講堂事件に代表されるように学生運動が激化した時代でした。

京都大学も例外ではなく、日米同盟を肯定する現実主義者の高坂に対し、左翼学生が高坂の研究室を襲撃したりしました。

高坂が左翼学生に囲まれて詰問されるのは日常茶飯事でしたが、そんな状況でも高坂は毅然と自説を語り、遠巻きに見ていた人たちから拍手が起こったという逸話もあります。

【総合安全保障】

佐藤栄作は、非核三原則や沖縄返還が評価されて1974年に日本人初のノーベル平和賞を受賞しました。

その際、推薦者には田中角栄、福田赳夫、大平正芳、若泉敬らと並んで高坂も名を連ねています。

加えて、高坂は推薦文の原案を書いたとされ、佐藤と強い信頼関係を築いていたことが窺えます。

佐藤内閣の退陣後、田中角栄内閣が発足しました。

第1次田中角栄内閣(出典:首相官邸ホームページ)

しかし、田中が有識者をブレーンにするより自ら官僚を使いこなすタイプだったため、高坂らの学者が政府に提言する機会は激減しました。

田中退陣後の三木武夫内閣では高坂が再び政権のブレーンとなりますが、続く福田赳夫内閣ではブレーンとしての役割を果たしませんでした。

1978年(昭和53年)に発足した大平正芳内閣では、ブレーンの一人として高坂も加わりました。

高坂は大平内閣の政策研究会である総合安全保障研究グループで幹事に就任し、外交・経済・教育・文化などの充実を図り総合的に日本の安全保障を向上させる提言を行います。

高坂が幹事として取りまとめた報告書には、日本の防衛政策の基軸は日米安保体制であることやエネルギー安全保障、食糧安全保障、大規模地震対策の重要性が述べられました。

また、安全保障政策を総合的、有機的に推進していくための機構として「国家安全保障会議」の設立が提案されました。

高坂は現実主義者の立場から戦略的に日本の安全保障を考えていました。

1982年、中曾根康弘内閣が発足しました。

第1次中曾根康弘内閣(出典:首相官邸ホームページ)

翌1983年に中曽根首相の私的諮問機関として平和問題研究会が設置され、高坂が座長を務めます。

三木内閣で閣議決定された「日本の防衛費を対GNP(国民総生産)比1%以内に収める」とした枠の撤廃と基盤的防衛力の見直しを提言しました。

実際に日本の防衛費が対GNP比で1%を突破したのは1987年度予算が最初です。

ちなみにこの時、中国共産党中央顧問委員会主任の鄧小平らは日本の防衛費増加に懸念を表明しています。

鄧小平(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Deng_Xiaoping_1976.jpg?uselang=ja)

【日本は衰亡するのか】

1986年(昭和61年)、高坂は平和・安全保障研究所の理事長に就任し、安全保障に関する提言に携わっていきます。

高坂は学者として、政権のブレーンとして、シンクタンクの理事長として活動しながら、1989年からはテレビ朝日の生番組「サンデープロジェクト」にレギュラー出演するようになり、コメンテーターとしても活躍しました。

この時、高坂は55歳でした。

高坂正堯(出典:LisBo)

高坂はどんなに多忙でも教育指導はいっさい手を抜かず、中西寛、坂元一哉、戸部良一、田所昌幸、佐古丞、岩間陽子、益田実、中西輝政、葛谷彩といった錚々たる研究者を輩出しました。

高坂はもともと改憲論者ではありませんでしたが、1990年(平成2年)に勃発した湾岸戦争を境に、改憲論の立場を明確にしていきます。

文藝春秋の『日本の論点 ’94』で高坂はこう述べました。

「十数年前まで私は憲法は改正しなくてもよいと思ってきた。…(略)…私が大学を卒業して今の勉強を始めたとき、憲法第九条は激しい論争の対象となっていた。違憲であるという言論が強く存在したにもかかわらず、自衛隊と日米安保条約は否定し難い現実であった。私はその曖昧さ、あるいは明快な解答がなかったこと――をよいことと判断したのである…(略)…しかし、次第に私の考えは変わってきた。そして今では、いかに難しくても、またいつの日になっても、憲法は改正されなくてはならない、と考えている。なぜなら、憲法、とくに第九条は日本人に深く考えさせるのではなく、思考を停止させるという性格が強まってきたからである」

晩年の高坂は日本の行く末に心を痛めました。

1992年(平成4年)に刊行した『日本存亡のとき』では、「戦後の孤立主義との決別がいまや日本には求められている。しかし、日本の鎖国癖を考えると、それは容易なことではない」とし、戦後の日本が「憲法に関して、まったく自由に論議をおこなうことができなかった」ことを「不幸なこと」と断じました。

そして、こう述べました。

「憲法第九条が重要なものであったのなら、その修正もまた重要だったはずである」

『文藝春秋』1993年1月号では、こうも述べています。

「国内では憲法論議はタブーであり、常に外交、安全保障問題をサボタージュするための逃げ口上として使われてきた」

「このまま放っておくと、日本が世界の中で『名誉ある地位』を占めることはありえないだろう。たとえ金はあっても、世界から軽蔑される国となるだろう」

「日本人というのは、追い詰められないと何もできない国民なのだろう。だが、それは日本が二流半の国家であることを自ら認めることである」

【巨星墜つ】

1996年(平成8年)1月、高坂は体調に異変を感じ始めます。

そして翌月、高坂は京都大学附属病院で肝臓癌を宣告されました。

高坂にとって青天の霹靂でした。

癌の進行は速いため、なるべく早く手術をするべきでしたが、多忙な高坂はすぐに手術を受けることができず、癌宣告から1か月後となる3月が手術日となりました。

手術時、すでに癌は悪化しており、腫瘍摘出よりも延命に向けた治療をすることとなりました。

それから2か月後、高坂は家族に見守られながら、静かに息を引き取りました。62歳でした。

高坂は自らが衰弱し、死期が迫っていることを悟りながらも、病床で原稿の執筆や校正を行っていたといいます。

高坂門下生の一人、中西寛はこのように語っています。

「最期までりっぱな先生でした。日本という国・社会への使命感の強さが先生をかりたてたのでしょう。書かれた時代は古くなっても、そうした気概がいまも若い研究者の心をとらえつづけています」

(京都大学広報誌『紅萠』2019年秋号)

日本の将来を憂いていた晩年の高坂は、亡くなる1年前に刊行した『平和と危機の構造』の中でこう述べています。

「日本の経済力は確かに大きいが、それは日本がアジアの中で産業化にいち早く成功したことによる利点が少なくなく、やがてそのリードは大幅に縮まり、失われることさえ考えられないわけではありません」

日本は国際社会の中でどう振る舞うべきか、憲法はこのままでいいのか、安全保障はこのままでいいのか、外交はこのままでいいのか、高坂は亡くなってもなお現在を生きる我々日本人に様々なことを問いかけています。

以上、理想主義が席巻していた1960年代初頭に28歳の若さで論壇デビューし、現実主義の立場から日本を鋭く見つめた国際政治学者、高坂正堯の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇

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【参考文献】 『高坂正堯 ―戦後日本と現実主義』服部龍二,中央公論新社,2018年

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