北条一族の血脈の謎
今年の大河・「鎌倉殿…」もいよいよクライマックスです。
先週は北条家族プラス比企能員の演者さんたちによるトークスペシャルでした。
裏話もたくさん聞けて、とても面白かったですね。
特に北条義時の最期の展開の意外性を匂わせていて、いったい三谷さんはどんな脚本に仕立てたのか、今からワクワクしてしまいます。
さて、やっと主役である義時の執権が始まります。
今までの濃い「ネタふり」をふまえて、これから義時が執権としてどういう政治を執り行うのか、これからが本番なのです。
今までの「ネタふり」が随所に効いた展開になるでしょうし、史実においての「北条」の立ち位置や役割が見えてくるはずです。
そこで、今回は義時が執権を継いだことで始まった執権の嫡流について考えてみたいと思います。
得宗家とは北条氏本家のこと
得宗は「とくそう」とも「とくしゅう」とも読み、どちらでも大丈夫です。
要するに北条氏嫡流の家系という事です。
「得宗」とは、義時没後、5代・時頼が禅宗系のおくり名や追号として付けた称号だったようです。(諸説あり)
得宗家の権力は絶大
北条氏の執権に関わる家系の略図を義時を中心に作ってみました。
得宗家は9代ですが、実際の執権は17代まであります。
執権職は得宗家の世襲なのですが、様々な諸事情で執権業務が確実に出来ない時は、北条の傍流から誰かが執権職を引き継ぎました。
元々は、幕府において「執権」そのものに権力があったのですが、それも5代執権の時頼の頃までで、それ以後は次第に「得宗家」自体に権力が移行していきました。
ですから、同じ執権でも、嫡流の得宗家と傍流の北条家との格差は開き、これも同じ北条一族の中に軋轢を生むことになりました。
義時は父を追放して嫡流となった
そもそも、北条家の嫡男は宗時でしたが、「石橋山の戦い」で討死してしまいます。
義時は義兄である頼朝に気に入られて「家子」として幕府内の要職には就いていたものの、父の時政は嫡男だと公言したわけでなく、伊豆の「江間」を継がせた形にしていました。
ですから義時は北条ではなく「江間」の人間だったのです。
これには、時政は牧の方(宮沢りえ)との間に生まれた政範を据えるつもりだったという説もあります。
しかし、時政は「牧氏の変」といわれる3代・実朝を監禁したなどのクーデターを起こし、その賞罰として伊豆へと追放されてしまいました。
最終的には息子の義時による決断なのですが、ただ、この時点では他にも父には、いき過ぎた行動が多々あったので、やむにやまれぬ決断だったとドラマでは描かれていましたね。
しかし、もしかしたら彼自身の胸の内には、執権の座を最初から狙っていたようにも思えます。
その理由は、
・父の不審な動きを感じながらも、わざと見逃していた。
・決定的な証拠となる「犯罪」を犯すまで、泳がせていた。
これらの行為は、次の執権の座を最初から狙っていたのではないか?
北条氏のただの親戚扱いだった次男坊が、一躍、本家の嫡流と躍り出たきっかけはこの時の「父の追放」からなのですから、そうも取れてしまいます。
正室との血統が嫡流ではない不思議
ここでどうしても不思議に思う事があります。
ドラマではかつて頼朝が手を付けて一子まで設けた八重を、義時は妻に迎え入れ、その子の泰時を嫡子にしているという点です。
上図では阿波局のことなのですが、3代・実朝の乳母となった妹・実衣も後ほど同名で呼ばれますが、別人です。
以後、この系統が得宗家となるのですから、これには重大な理由があったはずです。
義時には他にも側室は存在していましたが、上図では執権職を継いだ系統だけを挙げています。
常識的に考えて正統順位は次の通りだと思います。
・1位 正室・姫の前
・2位 継室・伊賀の方
・3位 側室・阿波局
なぜ一番傍流となるはずの阿波局の系統が嫡流の得宗家となったのでしょう?
その理由が知りたくて、義時の妻たちに関して考察してみました。
「阿波局」-得宗家
八重は伊藤祐親(浅野和之)の娘で頼朝に捨てられた女性でした。(義時の叔母にあたる?)
なるほど、そうなると頼朝には彼女に対して後ろめたい気持ちがあって、償いの意味で生存中に嫡子は泰時にと言い残していたのかも知れません。
義時は八重の事を愛していたし、尊敬する頼朝からのお達しもあったため、律儀にその通りにした可能性もあります。
実はこの阿波局の名は他にも見られ、彼女に関しては不明な点が多過ぎて、どこの誰なのかを特定できていないのです。
加地信実の娘
彼の父、佐々木盛綱は、頼朝の伊豆での流刑時代からの近臣ですので、その息子という事は、義時と信実も面識はあったのかもしれない。
しかし、信実の生年が1176年で、1163年生まれの義時と比べると13歳も年下となり、さらにその娘となると、年齢的に無理があるのでは??
比企能員の娘か?
鎌倉時代初期の史書・愚管抄によると比企能員の出身地は、「阿波国」と明記しているため、もしかしたら娘か、近しい縁者だったのかもしれません。
記録まちがいか?
記録する時に、たまたま妹の名を間違えて記してしまった可能性もあります。
う~ん。どうして側室腹の子を嫡流にしたのか?
決定ポイントは見つけられないのですが、
私としては、やはり頼朝からの推薦があったからで、
そうなるとドラマ通りの八重か、自分の乳母の一族である比企家の者であったかしかないと思われます。
「姫の前」ー名越流、極楽寺流
本来、姫の前(堀田真由)の生んだ重時が嫡流の得宗家となるはずでは?
北条一門の「極楽寺流」の始祖とはなったが、この正室の血統から出た執権は3人しかいない。
やはり比企の血族は北条が滅ぼした一族だけに地位が下になったのでしょうか?
絶世の美女と言われた彼女が、「比企の乱」では利用するだけ利用されて、挙句の果てに離縁だなんて、かわいそう過ぎます。
「伊賀の方」ー政村流、金沢流
ドラマ中でも、なかなかの腹黒さを見せている伊賀の方(菊地凛子)ですが、義時没後に、予想通り一波乱起こします。
次期執権の泰時を暗殺し、我が子の政村を執権にと兄の光宗と共謀した「伊賀の乱」です。
それを尼将軍の政子が処理して、伊賀の方は伊豆へ、兄の光宗は信濃へと流されてしまいます。
実はこの事件は、政子によるでっち上げだとも言われています。
このままだと伊賀氏の力が大きくなると危惧したようで、北条ファーストの政子ならやりかねないでしょうね。
しかし、ドラマでの伊賀の方は悪女として描かれているので、三谷さんは政子を好意的に見た、伊賀の方が画策したという設定でしょうね。
ここまで話が進むかどうかはわからないですが。
一族もろとも滅んでゆく
鎌倉幕府での北条氏は、欲にまみれた粛清の繰り返しで権威を維持してきたのです。
しかし、
先日の記事にしましたが、幕府創設から約150年後、わがままな後醍醐天皇のクーデターにより鎌倉幕府も終わりを迎えます。
政子と義時が何とか守り抜いた、得宗家も執権職も一時は栄華を極めましたが、この時点では鎌倉幕府の運営能力は衰えていて、御家人たちに何の恩賞も与えられないほど、屋台骨は揺らいでいました。
そんな時に得宗家として最後の執権となった高時は、完全に実権を握れないまま、逃げるように伊賀の方の血筋の貞顕に譲位し、自分は出家してしまいます。
これに反対したのが高時の母で、またここで揉め事が起こり、すぐに執権は姫の前の血筋の守時へと移ります。
いよいよ滅ぼされる寸前に一時的に執権職を継いだのが、最後の17代・|貞将《さだゆき》でした。
そして最期は鎌倉の東勝寺で自刃したり、戦闘に出て討死したり、あれだけ北条の家を守るために仁義なき戦いを繰り広げて守り抜いてきたのですが、滅びる時はあっけないほど哀れなものでした。
◇◇◇
そんな滅亡劇など想定していない義時が、北条家を守り抜くためにさらにダークサイドへと入り、これからどのような手を使って北条を守り抜いていくのか見ものですね。
小栗旬さんが黒い義時をどう演じるのか、楽しみであると同時に、最初の純真な義時だった時は「信長協奏曲」の信長役とかぶっていたのですが、今ではどう転んでも、もはや義時にしか見えません。
そんな彼の今後の演技力にも大注目です。
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【参考文献】
・刀剣ワールド
・Wikipedia
・鎌倉武将本家