日本芸能を変えた 近松門左衛門
前回、レキジョークルで「お初天神」を訪れた記事で曽根崎心中について触れましたが、今回はその作者近松門左衛門について書かせていただきます。
近松門左衛門は江戸時代前半の元禄時代、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書き、人々の人情を捉えました。
承応2年(1653)に、越前の吉江藩(現:福井県鯖江市)に仕える武家・杉森家の次男として生まれ、本名を杉森信盛といいます。(諸説あり)
理由は定かではありませんが、近松が14歳前後の頃、杉森家は吉江藩を辞し、一家は浪人となって新天地を求めて京都に出てきます。
公家に雇われて奉公するのですが、その時に得た知識や教養が、のちの浄瑠璃脚本に大いに生かされたようです。
宇治座で修行
20歳を過ぎた頃、人形浄瑠璃に魅せられ、京都で人気を集めた人形浄瑠璃の一座「宇治座」に加わり、宇治加賀掾のもとで脚本を書くための修行を積みます。
セリフから情景描写まで、1人で語り分けて物語を進行する役目を太夫といい、宇治加賀掾が「宇治座」の太夫にあたります。
ゴーストライターが当たり前
当時、浄瑠璃の台本は語っている太夫が自ら書くもので、たとえ他に作者がいても公にはされません。
ですから宇治座でも全ての浄瑠璃作品は、太夫である宇治加賀掾のものとされていました。
近松が宇治座でいくつかの脚本を手がけるようになったのは、すでに20代後半になってからでした。
はっきり近松の作品だとわかっているのは、1683年の31歳の時の「世継曽我」で、鎌倉時代に起こった「曽我兄弟の敵討ち」の後日談を描いたものでした。
「近松門左衛門」と初めて著名したのは、その3年後の1686年になってからの事で、作品は「佐々木大鑑」でした。
これは、近松自身だけでなく、脚本家そのもの存在を表舞台に出した画期的な事だったのです。
竹本義太夫との出会い
大阪の天才太夫
竹本義太夫は慶安4年(1651)大阪の天王寺の農家に生まれます。
彼は浄瑠璃に夢中で、しかも大きく良く通る声の持ち主でした。
いつしか太夫を目指して修業を積み、その後、近松と同じ「宇治座」の宇治加賀掾のもとで浄瑠璃語りをすると大好評を得ます。
ここで二人は出会っていたのですね。
彼は高音から低温まで自在に声を操り、どんなに満席でも一番後ろの席までシッカリ届くほどの声で、その上独特な言い回しが目新しく、すっかり観客を魅了したのです。
浄瑠璃界に革命
竹本の独特な言い回しは、後に義太夫節といわれ、従来の浄瑠璃とは区別され、国の重要文化財となりました。
貞享元年(1684)、独立した竹本義太夫は大阪の道頓堀で「竹本座」を興し、これが文楽の原点となりました。
そこで上記の近松による「世継曽我」を語り、大評判を得、彼の義太夫節は世間の子供たちまでがモノマネするほどに流行したのです。
その後も近松は竹本義太夫に多くの脚本を提供しており、義太夫にとって近松作品はなくてはならないものとなり、稀代の名コンビが誕生します。
近松門左衛門と竹本義太夫。2人は浄瑠璃界に革命を起こし、数々の名作を生みだしました。
代表作
近松の作品は、当時社会現象を引き起こすほど、人々に大きな影響を与えています。
生涯で残した浄瑠璃作品の数は約100編に及びますが、その中で主な代表作を3つだけ挙げてみました。
📖「出世景清」
平安時代末期の平家滅亡後、なおも源頼朝を討ち取ろうと画策した悪七兵衛こと藤原景清の葛藤を描いたお話です。
景清を描いた作品は過去にもありましたが、独特の曲調の義太夫節と近松の脚本との融合による演出で、近世浄瑠璃界を作り出しました。
📖「曽根崎心中」
当時実際にあった事件を元に、金銭トラブルを抱える醤油屋の手代・徳兵衛と遊女のお初が、心中するという悲劇のラブストーリーです。
近松はこの作品により「世話物」という新ジャンルを作り出します。(その他は「時代物」)
この影響で心中事件が増えるという現象もおこり、幕府から上演禁止命令が出されたほどでした。
📖「国性爺合戦」
中国人の父と日本人の母を持ち、中国王室の復興を目指して活躍する鄭成功を描いた作品です。(国性爺とは鄭成功のこと)
江戸時代は鎖国だったので海外の情報も娯楽もない中、舞台が中国なのが珍しく大ヒットを記録しました。
300年の時を超えて
歌舞伎脚本は坂田藤十郎のために
浄瑠璃脚本は約100編も書きましたが、そのほとんどが竹本義太夫のためでした。
40歳頃から書き始めた歌舞伎の脚本は約50編で、こちらは上方歌舞伎の始祖の一人である初代・坂田藤十郎のために書いています。
四代目・坂田藤十郎さんは2年前の2020年11月に老衰のため88歳で他界されました。
奥様が扇千景さん、実妹が中村玉緒さんですね。
当たり役はズバリ、近松の「曽根崎心中」お初役でした。
近松の作品は約300年もの時を超えてもなお、人々に愛され続けているのです。
元禄の三大作家
近松門左衛門は、
日本全国を旅して句を詠んだ俳諧師、松尾芭蕉と、
「好色一代男」で知られる作家、井原西鶴とならび、
元禄の三大作家といわれています。
元禄文化とは、江戸時代初期の当時の元号からそう呼ばれ、京都や大阪を中心に栄え、生き生きとした活気のある町人文化です。
そのような華やかな傾向にある時代の波に乗って、近松は竹本義太夫とともに近世の浄瑠璃界を開拓し、大阪文楽の元を作り上げ、歌舞伎界にも影響を与えた人物でした。
作品は一世を風靡して社会現象まで引き起こすほどヒットしたのを見ると、当時どれほどの人気脚本家であったかが安易に想像できてしまいます。
前回の記事で、てつをさんからこんなコメントをいただきました。
「お初天神」はきっと当時も、浄瑠璃の聖地として、また恋愛成就のスポットとして人気があったのでしょう。
そして今もなお、”聖地”として訪れる人が後を絶たないのです。
さて、現代の人気脚本家・三谷幸喜さんは、当時の近松門左衛門のような存在なのかもしれません。
業績だけを見たらまだまだですが、昔に比べると芸能も多岐に及んでいるという時代背景を考慮すると、現代版・近松門左衛門と言えるかもしれませんね。
【参考文献】
・ヒストリーランド
・近松門左衛門と竹本義太夫
・露天神社 お初と徳兵衛の物語
・文化デジタルライブラリー
・トップ画像:photoAC