
〈べらぼう番外編〉謎の写楽をどう描くのか予想してみた!
東洲斎写楽ほど謎に満ちた浮世絵師はいません。
今年の大河「べらぼう」でも当初から彼にまつわる謎をどう描くのか気になって仕方がありませんでした。
謎だらけの人物だけに、ある意味最も創作のし甲斐のある人物であり、脚本家の腕の見せ所となるキーマンであるのは確実です。
ところが、蔦重が助けて素性のわからないまま引き取った少年・唐丸(渡邉斗翔)が、偶然にもとんでもない画力を披露して蔦重をピンチから救い、誰もが彼が後の写楽ではないかと思わせる展開になりました。
素直に唐丸=写楽で進んでゆくのか?
それとも意外な展開を用意しているのか?
身を乗り出すほど、面白いことになってきましたね。
今回は「番外編」として、謎の絵師・写楽に関して、様々な考察をまとめてみたいと思います。
衝撃のデビューから
たった10ヶ月で消息不明

蔦重が44歳の寛政6年(1794)5月、それまで無名の東洲斎写楽という名の浮世絵師が28枚もの役者絵を発表します。
当時の役者絵は今でいうブロマイドであり、その魅力を伝えるために極力欠点をカバーして整った顔立ちに書き上げるのが定番でした。
しかし写楽の役者絵は、かぎ鼻であろうが、顎がしゃくれていようが、むしろその欠点をデフォルメし、有効なチャームポイントとして際立たせているのです。
このイジリともいえる独特の表現に当然ですが、当時の人々からも賛否両論があり、誰もが好評価したわけではありませんでした。
そりゃ役者本人にしてもそのファンたちにしても、気を悪くするものだったのでしょう。
逆にこれらをユーモアとして捉え、洒落として受け入れていたのは一部の人たちだけで、日本ではパッとしないまま、翌年の1794年3月までのおよそ10カ月間で実に約145点もの作品を残して、パタリと消息が途絶えています。
登場も突然なら退場も突然で、まるで神風のような人物でしたが、大々的な人気を得るまでもいかず、いつしか忘れ去られる存在となります。
外国人によって再評価される
しかし、それから110年ほどのちの1910年、写楽を再評価したのは日本人ではなくドイツの心理学者ユリウス・クルトでした。
研究書「Sharaku」を出版し、彼の正体に言及したことでヨーロッパの人々に始まり世界的に注目を集めたのです。
なんとまあ日本人ではなく外国人によって写楽の魅力を再評価されるなど、実に情けない話ではありますが、日本では逆輸入的なカタチで写楽の作品を見直し、再評価せざるを得ない状況になったようです。
あれ?そうなの??
といった感じでしょうか。
役者の表情による演技力を描きながら、その内面的な部分まで想像させる絵は、日本文化を知らない外国人だからこそ伝わったのかもしれません。
格別の扱いだった写楽
無名だった新人浮世絵師の作品が一気に28枚も発刊されるだけでも特別ですが、それら全ての背景に雲母鉱石を粉末にして塗り込んで輝かせるという高価な「雲母摺」にしているのもかなり格別な扱いでした。
まだ海の物とも山の物ともわからないのに、蔦重が並々ならぬ期待を寄せていたことが十分伺えます。
写楽は誰だ!

写楽の正体について、長年の間、研究がなされ学者の中でも様々に憶測され、いまだに確定できないからこそ、写楽はロマンある存在になっているのです。
其一、歌舞伎作者で浮世絵師
歌舞伎堂艶鏡こと、歌舞伎狂言作者二代目中村重助だとされる説もあります。
彼は寛政6年(1794)頃まで役者でしたが、その後の番付からは消えているのをみると、歌舞妓堂艶鏡としての作画期間の寛政7~8年(1795~6)と辻褄が合います。
ちなみに写楽が作画した時期は寛政6~7年(1794~5)なので、微妙に1年ズレるのですが、何かの記帳ミスとかの可能性もゼロではなく、もしかしたら彼が写楽なのかも。
其二、他の絵師の別名
そもそも写楽の絵は画力の高さが伺えるため、すでに著名となっている浮世絵師ではないかとも言われています。
例えば葛飾北斎や喜多川歌麿、歌川豊国などの同時期に活躍した浮世絵師、あるいは円山応挙や谷文晁などの絵画を描く絵師が同一人物ではないかという説もあるのです。
特に「東海道中膝栗毛」の十返舎一九は写楽の活躍と同時期に蔦重のもとに身を寄せていたので可能性はさらに高い。
彼らはすでにそれぞれが自分の路線を確立していながらも、まったく趣向の違う絵を描くためだけに、「写楽」という別名で発表した可能性もあるのかも。
其三、複数人いた
写楽の約10ヵ月の活動期間のうち、作風の大きな変化が大まかに4回ありました。
・第1期(1794年5月):デビュー作28枚。大首絵(顔面)の最も有名な物。
・第2期(同年7~8月):全身画の発表。
・第3期(同年11月~翌1月):それまでなかった背景が入る。
・第4期(1795年1~2月):江戸の劇場の「都座」や「桐座」の春狂言。「相撲絵」を描く。
特に第3期から第4期にかけて画力の衰えが顕著で、作風や描く題材にも大きな違いが見られることから、絵師がその都度変わったことも考えられ、工房全体で描かれた可能性もあるのかも。
其四、有力なのは能役者
今のところ最も有力視されているのは、能役者の「斎藤十郎兵衛」です。
彼が能役者として実在したことは文献から立証されていて、しかも多くの条件が写楽の活動内容と共通している上、実際の役者の表情や姿を生き生きと誇張して描けたのは、やはり本人が役者か、そうでなくても舞台と深く関わる人間ではないかと考えられています。
ただあと一歩、斎藤と写楽が同一人物であるという決定的な裏付け史料は無く、今後の新発見や研究に期待して、彼がそうなのかも。
其五、蔦重自身
これはどうだろう?と思ったのが、実は蔦重自身が描いたという説もあります。
写楽デビューは蔦重が脚気で生涯を閉じる3年前ですから、おおよその晩年にあたり、何かしらの突然の体調不良を起こして、急激に画力が衰え、ついに描けなくなったのか?
そもそも、今のところ敏腕プロデューサーとしての才能は十分発揮していますが、これで絵まで描けたらもうデキ過ぎでしょう。
しかしながら、蔦重がスーパーマンに化ける可能性もあるのかも。
脚本の腕に期待!

さて、ここまでの可能性を考慮した上で、唐丸の存在をあらためて見てみると、大方の視聴者が予想した通り、やはり彼が写楽という展開なのでしょうか?
いや待てよ。
それならあまりにもストレート過ぎるような気もします。
少なくとも唐丸はこの事に何らかの関わりがあるはずで、もし写楽本人であるのなら、突然の消息不明をどう描くのでしょう。
気になることが多すぎてますます目が離せません。
それと、今回の美人画集「雛形若菜初模様」発行にあたり、資金繰りから制作まで全て一人で手掛けたにもかかわらず、西村屋(西村まさ彦)や鱗形屋(片岡愛之助)らから直前でハシゴを外されて悔しい思いをした蔦重。
この無念を晴らすシーンが、一刻も早く見たいと思うのは私だけではないしょう。
ノーメイクだとわからなかったのですが、これを描いた絵師・礒田湖龍斎役があの鉄拳だったとは!
そういえば感動の作画動画を描いたこともありましたから、実力はあるはずです。
【参考】
・北斎今昔
・謎に包まれた浮世絵師・東洲斎写楽
いいなと思ったら応援しよう!
