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「法隆寺」を堪能する-第3回~秋の斑鳩と東院伽藍の深堀り

前回はこちら

10日ほど前になりますが、約5カ月ぶりに法隆寺を訪問しました。
初回訪問の時に、本当はじっくり見て回るつもりが、地元のボランティアガイドの方と出会い、詳しく説明していただけたのは良かったのですが、なにせペースが速すぎて、じっくりと鑑賞することができなかった心残りがあり、今回はそのリベンジでやってきました。

腰の骨折はまだ完治ではないものの、患部の痛みはすでになく、やや右腰が重い程度にまで回復したので、慣れ親しんだ同行メンバーに介護を受けながら?杖を突きながらの参加となりました。

しかしながら朝は晴れていたものの、この日は珍しく天気は雨予報です。
参加メンバーはチコさん、ミコさん、私というレキジョークルきっての晴れ女トリオだったので、もしかしたら私たちの「晴れ女パワー」で奇跡的に降らずに済むかもと期待を込めての決行です。


秋桜と三重塔と奈良の原風景

高速を降りて、もうすぐ到着するという頃にチコさんが、
「今、ちょうど法起寺ほうきじの裏側のコスモスが満開やで。行ってみる?」
というので、もちろん反対する理由などなく、私たちは目を輝かせて賛同し、まだ晴れているうちにまずは前回も行った「法起寺」へと向かいました。

圧巻です!!

コスモスは単体だと茎も細く枝ぶりもお行儀が悪く、どこか頼りない立ち姿なのですが、密集して咲くと本当に豪華なものに変わります。
可憐な花も一躍高貴なバラのように見えるほどで、感嘆の声をあげずにはいられませんでした。

法起寺の三重塔と奥の右に柿の木のオレンジ色の実が垣間見え、なんとも奈良らしい風景ではありませんか!

私たちが到着した時にはすでに多くの撮影者がいて、いわゆる「映え写真」を撮りまくっていました。
ただし年配の方がほとんどで家族連れや若い人たちがほとんどいないのを見ると、やはり奈良は地味なイメージがあるのでしょうか?

知る人ぞ知る穴場の映えスポットでした。

コスモスは意外にも強い

コスモスは和名を大波斯菊おおはるしゃぎくといい、ギリシャ語で「秩序」「飾り」「美しい」という意味だそうです。
星が並ぶ宇宙のことをcosmosコスモスと言うことから、花びらが 群れて並ぶこの花もcosmosコスモスと言われるようなったという説もあります。
原産地はメキシコで、イタリア人が1876年頃にメキシコから日本に持ち込んだのが最初だと伝わっています。

開花時期が7月下旬 ~ 12月初旬頃と長く、外来種でありながら、今や秋を彩る花として日本の風景にも欠かせない花となりましたね。
     
葉は線のように細い上、茎も細くて頼りない様子ではありますが、実は強靭なしなやかさ●●●●●を持ち、強風にあおられても倒れません。
茎の途中からも根を出して、何度も立ち上がって花をつける逞しさをもち、可憐な外見からは想像もつかない花なのです。

おや?これって人生を生きる上でお手本にすべき性質では?

花言葉は「乙女の真心」「愛情」「たおやかさ」。
だけど、「性質は逞しい」。
人間にもこんなタイプはいますよね。
花も人も決して見かけでは判断できないのです。


東院伽藍をじっくり見たい!

夢殿の不思議

東院伽藍に一歩入ると、このエリアの本堂である八角形の「夢殿」があります。
八角形の上、屋根の上には不思議な形の「宝珠」が光っているのが大きな特徴です。
ご本尊は以前の特別拝観で拝んだ「救世くせ観音」ですが、この日は安置されている逗子の扉は固く閉ざせて拝顔することはできませんでしたが、また近々特別拝観があるので再訪するつもりです。

太子信仰の聖地

創建年ははっきりしないのですが、天平11年(739)だと推定されています。
ここはかつて聖徳太子の斑鳩の宮があり「上宮王院うえのみやおういん」と呼ばれてました。
しかし蘇我入鹿いるかに滅ぼされて以降は荒廃し、高僧・行信ぎょうしんが太子供養の伽藍を発願して建立し、太子の霊を鎮める地として、”太子信仰”の始まりの地となりました。

なぜ八角形なのか?

その形から「八角円堂」や「八角堂」ともいわれていますが、どうして八角形なのか?
・古代中国の風水から
天は円く地は方形という「天円地方」の考え方から
・聖数の「8」から
特殊な呪力をもち、神聖な意味があるとされる数字だから
・どこからでもご本尊が拝める
太子がモデルとされいる救世観音を、あらゆる方向から拝めるから

なぜ夢殿なのか?

聖徳太子が法華経の注釈書を書いている時に、夢に黄金に輝く人物が現れて教えを授かったという伝承があり、それ以降「夢殿」となったそうです。

絵堂と舎利殿

「夢殿」のすぐ北側には中央の廊下で東西に区切られた「絵堂」と「舎利殿しゃりでん」があります。
「舎利」とは釈迦の遺骨のこと。ここはそれを納めたところなので「舎利殿」なのです。

四天王寺の絵解き話によると、太子が2歳の時、「南無…」と言って合掌すると、その掌中からお釈迦様の遺骨がこぼれ落ちたそうです。
とてもあり得ない話ですが、聖徳太子に関しての伝承話はすべてがかなり盛られているようですね。

毎年お正月の三が日には解放され、舎利講法要が催されるとの事ですが、「絵殿」の方の開放の情報はありません。
なんでも聖徳太子の生涯を描いた障子絵があるらしいのですが、ぜひ見て、四天王寺のものと比べてみたいものです。

またツッコミどころが多そう(笑)
向かって左(西):絵殿、右(東):舎利殿


修学旅行生で賑わう

朝から蒸し暑かったのですが、やはり予報通り雨が降ってきたので、回廊の屋根の下に入って夢殿を眺めていると、女子高生の団体が入場してきました。

女の子はやっぱりかわいい!(笑)

私には息子しかいないので、余計にそう思う!

そこで私は、また大阪のおばちゃん根性が出て、
「どこから来たの?」と聞くと、
「北海道からです。」と答えたので、
「え~!こっちの方が逆に行きたいわ!」
と咄嗟に言葉にしたら、ニコッと笑うのがまた可愛いのです。

みたところ色白の子が多いので、これは東北あたりから来られたのかもしれないとは思っていましたが、北海道とは!
だんぜん若い世代にはそちらの方が良いのでは?
「奈良の寺巡りは地味やろ?」と聞くと、明らかに少しウケたようで、また笑ってくれました。


ランチは「布穀薗ふこくえん」で
幕末を感じながら

今回のランチは東院伽藍より南へ約200mのところにある「和cafe 布穀薗」でいただきました。

玄関&カフェのエリアは京都市伏見区の「淀城」の門を移築したものらしいです。
「淀城」といえば秀吉の側室・淀殿の名が由来となった城ですが、それは「淀城」と呼ばれるもので、現在の淀城跡は江戸時代に入ってから築かれたもので、そこから約1キロ南西に位置します。

おそらくこの長屋門は後者のものでしょうが、なんせ当時の淀城の門は21棟もあり、この門がどれなのかはわかりませんが、この城の正門には幕末の「鳥羽・伏見の戦い」での旧幕府軍が敗北する要因になったエピソードがあります。

旧幕府軍は淀藩は味方だと信じて逃げ込もうとしたところ、なんと門を固く閉ざして断固として入城拒否しました。
城主の稲葉正邦は不在でしたが、留守居の重臣・田辺右京・治之助の兄弟が旧幕府に見切りをつけての判断でした。

このエピソードがにわかに蘇り、これがその時の門ではないにしても、眺めると感慨深くなりました。
「裏切り」といえば聞こえは悪いですが、この動乱の時代においては生き残るためには仕方のない事で、旧幕軍の無念は相当なものだったでしょうが、淀藩側も背に腹は変えられない苦い決断だったに違いありせん。

そんな幕末の尊攘運動家の一人であり、維新後には司法官となった北畠治房きたばたけ はるふさが晩年、「布穀ふこく」という号で隠棲していた屋敷がここ「布穀薗ふこくえん」なのです。

広くはないですが落ち着いた店内で、大きなガラス窓からはターフ付きのテラスと治房はるふさが建てた母屋と庭を眺めながら、熱々の鶏の竜田揚げがメインのランチを美味しくいただきました


>>>つづく



【参考】
法隆寺
作者はなぜ八角形で作ったか
城びと
季節の花
寺院の歩き方 山田雅夫著
古寺行こう 法隆寺




「法隆寺」を堪能するシリーズ
第1回~プロローグ
第1回~東院伽藍
第1回~西院伽藍
第2回~藤ノ木古墳
第2回~周辺の寺々
第3回~お宝と七不思議


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