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“日本的”なるものの系譜─橋本治『ひらがな日本美術史2』

橋本治『ひらがな日本美術史2』は、鎌倉・室町時代を中心とする中世の巻。

第1巻を読んだとき、私は「橋本治の文章を通すと、作者の体温や息遣いまでもが感じられるようだ」と書いたけれど、第2巻ではそれに加えて、ある作品が作られてから現在に至るまでの無数の人々の存在を感じられるような記述が多かったように思う(私は美術に詳しくないのでそういうところばかりを読み取ってしまう)。

例えば、そんなに字が上手くない和歌の天才・藤原定家の筆による書がなぜ“奥深い魅力を湛えた家宝”となったのか、あの有名な“源頼朝の肖像”が実は別人の肖像画だったのでは?という話から、人々の間で共有される“イメージ”がいかにして醸成されるのか。そこには長い時間とたくさんの人々が関わることによる価値観の変化がある。

「人は、往々にして、他人をイメージで判断してしまう。一旦『こうだ』というイメージが出来上がってしまったら、もう『実際のその人』は、どうでもいいのだ。出来上がってしまったイメージの前で、『その人の顔』は、参考程度のものにしかならない。新護寺の肖像画を『源頼朝だ』と思い込んでしまったら、その絵に描かれているかどうか分からない『猜疑心の強いとされる典型的な三白眼』というようなものも、絵の中に発見してしまうだろう。時として人は、絵を見ながら絵を見ていない。絵を見ているつもりで、絵の中に、自分の知っている『知識』を勝手にはめ込んで、勝手に絵を描き変えてしまう。」

「歴史というものを『年表の暗記』と思い込んでいる人にとっては関係ないだろうが、歴史というものは、ほとんど伝説の塊のようなものである。有名な歴史上の人物というのは、大なり小なり、俗説による『イメージの色づけ』が出来ている。源頼朝と言えば、『冷酷な政治家であると同時に好色漢』だし、源義経と言えば『悲劇の英雄』で、徳川家康は『狸オヤジ』だ。山岡荘八が『徳川家康』という小説を書いて、それで『家康=狸オヤジ』のイメージはかなり修正されたけれども、でも結局、人は『家康=狸オヤジ』というイメージを、まだどっかに残している。なぜ残しているのかというと、その方が“分かりやすい”からだ。」

橋本治「さまざまな思惑のあるもの」
(『ひらがな日本美術史2』)

時は中世、その時期の日本における美術を取り巻く状況はこんな感じ─。

「もしも、運慶が女性の像を彫っていたらどうなっただろう?
日本にはきっと、美しい“日本のヴィーナス”も登場していただろう。運慶には、それが出来たかもしれない。『日本でそういう彫刻が作れる可能性を持った人は運慶だけだろう』と私は思うのだが、しかし、そういう“事実”はなかった。鎌倉時代に日本の民衆の間に浸透して行くことになる仏教という教えは、女性の像を必要とはしなかったのだから。
少年は肉体を持って、女はそれを持たなかった。だから、どうなるのか?ここから先の400年ばかりの間、我々は、女っ気というものがまったくない美術史につきあって行かなければならないのである。近世になって、浮世絵とか、阿国歌舞伎という女の芸能が登場するまでの日本は、そういう美術史を持つ国なのである。
西洋のルネサンスの2、300年も前に、もうバロック彫刻という人間の輝きを持って知っていた我々は、精神性だけで色気のない“その先の400年”を持つ─『それが日本の中世だ』と、私なんかは思うのである。」

橋本治「歪んでいるのかもしれないもの」
(『ひらがな日本美術史2』)

バロックとは、均整の取れたルネサンスに対する“歪んだ真珠”のこと。

中国との交流が再開する時期でもある。

「『大和絵』というのは、平安時代には『日本のことを描いた絵』だった。だから、『大和絵』に対して、中国のことを描いた『唐絵』という言葉があった。見たこともない中国の風景を日本的なタッチで描いたとしても、題材が中国なら、それは『唐絵』だった。しかしその事情が、鎌倉時代になって変わる。『大和絵・唐絵』という一対の言葉を持っていた平安時代は、遣唐使を廃止した“鎖国状態”にあった時代だけれども、鎌倉時代に近づくと、中国との交流が改めて開始される。中国の宋・元の時代の絵の描き方が日本に入って来て、本場の実情を知らない『大和絵・唐絵』という区分は、時代遅れになってしまった。本場の中国からは、“新しい絵の描き方”がやって来る。新しいスタイルが登場して、それまでの絵の描き方は、“それまでのスタイル”になってしまった。」

橋本治「大和絵というもの」
(『ひらがな日本美術史2』)

当時の感覚で言えば中国は“本場”で、そこから来る絵は“新しい”。そういうものを取り込んだときのものの見方や価値基準の置き方は、良くも悪くもとっても“日本人らしい”。だから、日本人が昔からしていた考え方を知ることができるのがこの第2巻なのです。

“日本人らしい”考え方、それは例えば前例のない考え方に対する態度。

「この絵は、『この屏風絵を描いた作者が下手なので、山が傾いているように見える』ではないだろう。これはどう見たって、『十分に画力のあるとんでもなくうまい画家が、“そうなるように”構成して描いた絵』だ。この山に描かれている樹木の一々の緻密さは、常凡(なみ)のものではない。針葉樹・広葉樹が取り混ぜられて、見事な夏の緑の山になっている。ここにあるのは、“画家が描こうとしたままの素晴らしい絵”で、だとするとこの画家は、どうあっても、『陸地が海に流れ込んで行くように屏風絵を描いた』なのである。
そう見てはいけないんだろうか?いけない理由はないと思う。なぜかと言えば、この絵の中で『右から左へ、時間が春から夏へと流れている』というのは“常識”だからである。“流れている時間を描く”は日本の絵画の常識で、“流れている時間”などという描きようもないものが一つの固定された画面の中に描かれてしまうのだったら、“流れ出す大地”が描かれていたって別に不思議ではないじゃないかと、私は思う。この見方が否定される理由があるのだとしたら、『“流れている時間”は、これ以前にも前例がある。しかし、“流れ出す大地”などというものには前例がない』という、そのことだけだろう。『そんな前例はないんだから、日本人はそんな絵を描かなくて、だから当然この絵はそんな絵ではない』ということになる。日本人は、“前例”というものを重んじる。どんなシュールなことでも、その“前例”がありさえすれば、『いや、結構なもので』と認めてしまうのに、その“前例”がないとなると、『なんですか、その考え方は?』と、平気で目を剝いてしまう。もしかしたら、この《日月山水図屏風》は、その最初の“前例”かもしれないのに。」

橋本治「動きだそうとするもの」
(『ひらがな日本美術史2』)

または、極端に権威に弱いところ。

「人間は、絵を見て感動する生き物ではあるが、その人間の多くは、“絵”に感動するのではない。より多くの人間は、“絵に描かれている理屈”に感動するのである。その理屈を信じていれば感動は起こる。しかし、その理屈が通じなくなった時、かつての“名画”は、『なんだかピンとこない絵』になってしまう。なんとそういう種類の絵が多いことかと言いたいが、権力者に愛され権力者にふさわしい“一流品”と思われた狩野派の絵だって、やっぱりそういう種類の“描かれた理屈に感動する絵”なのである。
水墨画に描かれているものは、『俗界を離れて幽玄の世界に遊ぶ高級な人間達の姿』である。それは、『人間とはかくもあらねばならない』という境地を示すものでもある。つまり、『人の上に立つ人間達に課されたお勉強の目標』を示すものなのである。そういうものを描く絵だからこそ水墨画は素晴らしい─この時代の支配階級に属する日本人達は、そのように信じていたし、それから後の日本の支配階級の人間達も、その路線に従った。狩野派が御用絵師になっていたのは、彼等がそういう『支配階級のための検定用教科書の絵を描く専門家』になっていたからで、狩野派を御用絵師にした権力者達の部屋には、必ず中国の風景や中国の仙人や賢人達の姿を描く水墨画が飾られていたのである。」

橋本治「平均値的なもの」
(『ひらがな日本美術史2』)

「日本人は、もうあらかたを知っている。そういう日本人にとって必要なのは、“その先の詳しさ”なのである。日本の文化はそのように発展して来た、私はそのように思う。その『あらかたを知っている』という“アバウトさ”こそが、日本人の身上なのである。なにをもって“日本的”というのかがよく分からないまま、日本人は“日本的”という言葉を平気で使うが、『大体のことはもう分かっている』という安心感こそが、日本人に共通する最大の認識で、その共通認識の存在こそが、“日本的”を成り立たせる基盤なのである。」

橋本治「日本的なもの」
(『ひらがな日本美術史2』)

「日本人は、いつもどこかを見ている。遠いどこか─。
その曖昧が、次の時代のお手本となり、伝統となり、芸術となる。芸術は遠く、しかしそれを作り上げた人間達も、やっぱり生きて血の通った人間達だったのである。」

橋本治「まざりあうもの」
(『ひらがな日本美術史2』)


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