初めてなにかを“美しい”と感じるとき、そこには、自分の心をリラックスさせてくれるような人間関係がある(対象の擬人化も含む)。人生のはじめにそのような経験があって、その後長い時間をかけて、自分にとって美しいと思えるものに触れ、その度に豊かな人間関係の欠落に気づくことで美的感覚は育まれていく。橋本治は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本でそう書いていた。
鍵になるのはその人間関係なんだ。冒頭引用した言葉を、私はそのように捉えている。
橋本治が様々な媒体に寄稿した文章を集めて“四季四部作”はできている。時系列はバラバラだ。ということは、「この文章が“春”の中に入っている理由はなんだろう?」常にその問いを頭に置いて読んでいた。それはこれまで読んできた秋冬でも同じ。
橋本治は人生の初期を春と位置付けている。私は『春宵』を読んでそう確信した。決めつけだが。
これは橋本治の『枕草子』の解釈を援用したものでもある。橋本治は、“春は曙、夏は夜…”について、“曙は春、夜は夏…”と一日のある時間帯を四季になぞらえる発想も成立しうると書いている(『問題発言2』)。四季四部作のタイトルもまさに同じことが言えるし、その発想が成り立つのなら、人生を四季になぞらえることもありえる。
人生を自分の足で歩き始める時期が春。橋本治はそのように言っていると思えた。
橋本治は青春群像劇『桃尻娘』で小説家デビューした。桃尻娘を書いていた頃の橋本治は“春”だ。まだ自分の人生が見えない高校生が描かれた『桃尻娘』も、作品としてはやはり“春”だろう。はじめにあって、だけどずっと核にありつづけるような大事な時期を春として橋本治はイメージしているような気がする。濃厚に未来への予感がある、さらに言えば予感しかない時期ではあるが、生涯にわたりずっと支えになるようなものが育まれるとき。それが春だ。